ノミ屋の住むアパート

 公営競技、という名の博打にはよくノミ屋という用語が出てくる。ノミ屋ってなんですかkiexさん競馬競輪やるんですよね使ったことありますか?と聞かれることも以前はあった。

 実は私はノミ屋を経営してたのだわはは、というと、過去の犯罪告白であっという間にnoteのアカウントは削除されTwitterでは叩かれFBで個人情報が暴かれ2chに転載され住所と勤務先に凸され私の社会的存在は抹殺されてしまうわけだが、残念ながらノミ屋を経営してたこともないし利用したこともない。

 でも、ちょっと、というより、世間の競馬やる人よりはノミ屋商売をたぶん知っている。

 何故かと言われれば、高校の時に付き合っていた彼女の祖父が、ノミ屋の胴元だったからだ。

 日本の暴力団業界は経済の復興に伴い、急速に発展していく。米軍に接収された神戸港で港湾物流のノウハウを獲得し、そのノウハウをもとに大阪港、名古屋港、横浜港などの港湾事業に進出することで全国的に発展していった山口組はその典型例で、土木工事や港湾物流と言った労動者を多数必要とする産業に食い込んでいくことで日本一の暴力団となった。小説や漫画では、血で血を洗うが如き暴力団抗争を繰り広げて、ヤクザ戦争の勝者として進出していくわけだが、それは一側面に過ぎない。暴力を支えるためには資金と、資金を稼ぐ人間がいる。戦後の経済復興期を通じて、労働力をかき集めて港湾や物流、建設工事の現場に人を送り込む事業こそがヤクザ組織の暴力闘争を支える資金源だった。

 私が住んでいた街は大都市郊外で、都市化が進んでいく農村の典型例だった。水田が買い上げられて宅地化・団地化され、そこにはよそから引っ越してきた親子二世代の核家族が住んだ。核家族を支えるのはクルマや電車で大都市に通勤するサラリーマン、農村時代から住んでる三世代家族は、両親が地元で働き、祖父母が農業を続ける兼業農家という色分けだった。

 核家族のお父さんたちの娯楽はパチンコだ。通勤の帰りと休日には駅前のパチンコ屋へ立ち寄り、2時間程度で打つ。当時は「クルマでガソリン使ってパチンコ屋へ行く」という発想がなかった。クルマはあっても、買い物かドライブ、旅行用。私が住んでいた住宅地は両親が集団就職で九州からきたという人たちが多く、お盆や年始年末になると空路でも陸路でもなく、クルマごとフェリーで九州へ帰省していくのだった。駅前にあるパチンコ屋に駐車場はなく、映画館や書店、スーパーマーケットと同じく、お一人様が自転車で行く娯楽だった。

 兼業農家の伝統的な娯楽は賭博だ。地元のヤクザが仕切る賭場は、農村の夜の社交場の役目を果たす。しかし、戦後生まれの世代にとっては賭場に行くのは面倒くさい。何が悲しくて夜中に出かけて行って、むさ苦しい爺さん、怖いヤクザと一緒に手本引きやらなければいけないのか。農協や青年団が主催する旅行でコンパニオンあげて騒いだりとか、国際線が乗り入れ出したばかりの近所の空港から研修旅行(という名の買春ツアー)に出かけたりするほうが圧倒的に多かった。

 しかしそれでは賭博をシノギとするヤクザは干上がってしまう。大人しくズボン売りの行商をやるか、畑でも耕していればいいのだが、今更そんな生活に戻れないというわけで、彼らが始めたのがノミ屋だった。

 前にも述べた通り、ノミ屋は非合法の馬券売りだ。当時馬券を買うことが出来るのは競馬場か場外馬券売り場だけで、電話投票さえなかった。競馬は都会の娯楽で、百姓の娯楽ではなかったのだ。従って、田舎で馬券をやるためにはノミ屋は必須だった。

 彼女の祖父は元市会議員で、アパートをいくつか持っていた。その一室に電話を置き、馬券を受け付ける。1割返し、1週間精算、上限100倍のシステムで、1レースの賭金は10万が上限。もっともそんなに賭けている奴はまずいなかっただろう。爺さんは知り合いのヤクザに部屋を貸し、その上前をはねていた。羽振り良かったので、田舎賭博とは言え、それなりに儲かっていたのだろう。

 経済の発展に伴って5万人の田舎町が人口10万を超える衛星都市になれば、駅前にけばけばしくディスプレイされた風俗店が進出し、客引きのための割引券を配るようになる。国道のバイパス工事に伴って物流拠点やトラックターミナルが完成し、ロードサイドには駐車場完備の大型パチンコ店が進出する。農家は世帯数の半分を占めていたが、たちまち市内の総世帯数の1割程度にまで減少する。選挙の公約は農道や圃場整備などの農業振興策ではなく、公共施設の建設や社会福祉の充実などの暮らしやすいまちづくりに変わる。アンダーグラウンドビジネスでさえ例外ではなく、いつの間にか地元のヤクザが経営していた賭場は消え、その代わりに巨大暴力団の末端組織が経営するゲーム喫茶が出来ていた。ポーカーゲーム賭博というシロモノだ。

 ノミ屋も例外ではなかった。もともと電話で馬券をやり取りするシステムなので、別に地元になくてもいい。働いている人間は給与振込口座を銀行、信用金庫に持っていたし、老人たちは農協や郵便局に年金振込口座を持っていた。現金を動かす必要がないのだ。縄張りなどあってなきが如しで、彼女の祖父が病気で倒れたこともあり、たちまち田舎のノミ屋は潰れてしまった。追い込まれた地元のヤクザは団結して巨大暴力団と戦おうとしたが、警察署の近所にあった事務所は拳銃撃ち込まれるわダンプ突っ込んでくるわで半ば廃墟となり、彼女の祖父とノミ屋を共同経営していた田舎ヤクザは行方不明になった後、数年後に愛車のクラウンが港に沈んでいるのが見つかったと聞いた。

 高校を卒業して彼女とも別れ、都市の大学に進学し、実家もその町から大都市に引っ越した。子供時代を送った場所からはすっかり縁が切れてしまったけれども、Googleのストリートビューはかつての私の通学路、実家周辺などの懐かしい場所の今を教えてくれる。廃墟となったヤクザの事務所跡地はマンションになっており、巨大暴力団の末端が経営してたゲーム喫茶はコンビニとなっていた。賭場を開催していた農家は土地が分割され、数軒のオシャレな住宅になり、彼女の家も建て増しか建て直しをしたのか、記憶している姿とは違っていた。彼女の一家が今でもそこに住んでいるのかどうかはわからない。ただ、ノミ屋が入居していたアパートだけは、ボロくはなっていたが、昔のままだった。

 

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