弔辞・偉大なるノイズアーティスト「宗近画伯」へ。

この動画は、今年で4回忌を迎える事になったノイズミュージシャン「KUSO-MISO」のフロントマンである故・宗近さんの地元、埼玉は鷲宮まで取材に行って撮影した15年前の映像である。

話はインディーズでそこそこ売れてるミュージシャンやレーヴェル―水晶の舟、CRACKSTEEL、HIROSHI HASEGAWA道産子アナル、殺害塩化、口石アキラ史上最悪くそレーベルなどに及んでいる。勿論、筆者自身の音楽活動についても喋っているのだが…。

筆者が北浦和KYARAで「どうも、KIGASといいます」「あー、なんか知ってるよー」などと他愛もない会話をして出会ってからというもの、彼自身はノイズミュージシャンとしての遍歴を語る事は無く、次の世代のアングラ系バンド・アーティストを発掘するのにビラを握りしめながら毎日東奔西走していた。想えば筆者自身はレコードを創りあげるのに必死で気付かなかったが、一流メジャーレーベルのA&Rスタッフに勝るとも劣らない、彼の無償の親心は賞賛に値するものだった。

遡る事、四半世紀。くるり、鴨川、片山ブレイカーズ…京都系と呼ばれるロックバンドブームの最中にあった21世紀初頭、劇伴奏活動で一先ずの結果を出した自分は四条河原町に別れを告げ、就職氷河期真っ只中の会社訪問・OB訪問に心身を摩耗させながらもデモテープをプロダクション・レーヴェルに送り続ける日々が続いていた。

だが自分の未来に希望が見出せず、何をやっても巧く行かず、自暴自棄になっていた地獄の中で出会う人達の心強さは何者にも代え難かったし、渋谷屋根裏は行き場を亡くした狼たちの安住の場所でもあった。勿論、宗近さんもそのはぐれ狼たちの一匹だった。

筆者が音楽活動をまともにやりだして、関西で一番最初に出会った(界隈では有名になってる)ベーシスト・干川弦君の、素晴らしい最近の呟きである。

学生時分で傾奇者を気取り、「おれバンドやってるんだ」等とハコで出会うバンギャたちに吹聴し、やがて顔は痩せこけ白髪も増え、それでも創作活動を続けられているリアルバンドマンもいることはいる。しかし、何の因果なのか理解も出来ないまま、結婚・出産・大病等逃れられない大参事に遭遇し、「夢の工場」から居なくなった人達のほうが非常に多い。

宗近さんは喉にモノを詰まらせて倒れた瞬間、幾ら精神疾患に犯されてるとは言え、こんなことで自分がこの世から消えてしまうなんて想っても無かったことだったろう。しかし彼の急逝を知ったのも、筆者が退院してからのようやくの事だったし、弔辞といえど、取り留めもない自分の夢への妄執に対する駄文をNOTEに書き連ねる事しか今は出来ない。

それにしても享年・51歳。
ちょっと早い往生ではないか。

画伯。我々もそちらに行くのは、もうちょっと一人であおり酒でも浴びながらでいいんで、まぁ待っててください。

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