疒日記09 自己否定

この日記の更新の間隔がどんどん広がっているのは、体調の管理に手こずっているせいもあるが、それ以上に、病気を劇的なものだと捉えるような感覚が僕の中でどんどん薄まってきているからだと思う。以前は身に起こることを、こんなことがあった、そんなこともあった、と書いていけばよかったが、今はもう、ずいぶんのっぺりとした生活で、これといって書くことがない。自分の実存と病を患っていることがすっかり重なってしまい、輪郭線のブレを認識することすら面倒になってきているのだった。

病者であることのドラマ性がこの身から薄れていくと、ごく素朴に、ああ、死にたくないなあと思うようになる。今までは、やっぱり心のどこかで、この運命の劇的さに酔っていた。死後に書かれる追悼文や関係者が寄せるコメントを生きながらにして想像してしまうような、そんな不遜な気持ちもあった。

しかし、いま、足腰が弱って満足に歩けなくなり、声も掠れ、そして右手も力が入らなくなりペンで活き活きとした線も描けなくなって、なんだこりゃ、どうしようもないな、という気分になってしまう。

それで、せめて足腰だけでも、いや、声だけでも、いやいや、右手だけでも以前のように自由に動かせたらと考え始めると、最終的には、やはり、ああ、死にたくないなあという結論に達してしまう。満足に活動できない状態で生きていても仕方ないので、死にたくないというのは、この衰弱した身体を以前の状態に戻したいということで、病そのものの否定だ。しかし、否定できるわけがない。

昨年秋より、ぼくの残りの人生のすべてはこの病とともにあることに定まった。だから、逆説的だが、「死にたくないなあ」は自己否定、残りの人生の否定ということになるのだ。これはなかなかすごい話だと思う。我ながら。

自己を肯定するためには、まず不如意である身体のあれこれを受け容れなければならない。そしてそれらを受け入れるとは、何もできない、恐ろしく退屈な毎日を過ごすことと同義なのだ。




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