疒日記7 |デクノボー

思うところあって前回の日記は「寄付受付用」にしたのだが、説明が不十分だったか、危口のイタズラであるかのような誤解を招いてしまったようだ。だから今回の日記ではきちんとした説明と、そもそもの発端である「思うところ」について書いてみようと思う。

ただ、この「思うところ」は、あくまでも先週(昨年末)の僕が思っていたところであり、今はまた違ってきている。だから、ここで書くためには過去のことを思い返すようにして書かねばならない。そして、この思い出すという作業はちょっとばかり苦痛だ。しかし、そんな気分だったのだ、あのときは。

お見舞いについては前にも書いたが、こういう事態になると他にも贈り物、そして療養や生活についてのアドバイスなどもまた、たくさん寄せられるようになる。もちろんひとつひとつが友人たちの優しい心から生まれた行動だ。僕はそれらを本当にありがたいと思ったし、嬉しかった。しかし一方で、重荷にも感じ始めていた。そして、重荷と感じる自分自身を道徳的に責めることもできると思った。この調子が続くとまた体調が悪くなってしまう。どこかで何らかの調整が必要なのは明らかだった。

重荷に思い始めた発端は、たくさん送られてきた書物だった。入院中はすることがないだろうし、それに、危口はそもそも読書が好きじゃないか、ということで送ってくださるのだが、これがなかなかに処し難い。小説、思想書、カルチャー、美術、科学系、とにかくいろんな本が手元に届いた。平時でもすぐには読み切れないほどの量だ。そして中には、ずっしりと物理的に重いものまであり、これはさすがに病床では読めない。恥を忍んで言うが、というほど恥とも思わないが、入院した頃に僕が好んで読んでいたのは漫画『北斗の拳』だ。しかもKindle版をiPhoneにダウンロードしたものだ。病をおして兄ラオウと戦わんとするトキを見て涙腺を緩ませていたのだった。

物を贈るというのは意外と難しい。物は使うためにある。ということは、何かを贈るということは、それを使えという命令とも受け取られる。これを読め、あれを読め、これを聞け、それを使え、そんなふうにして、僕は贈り物を受け取る度に、行動の選択肢がぎゅううっと絞られていくような閉塞感を味わったのだった。

今だから笑い話のように語ることもできるが、このときは精神的にキツかった。みんな勝手だ、とすら思っていた。「もし自分の身に起きたならこうする」という行動を勝手に想像し、僕に押し付けてきてるんじゃないだろうか。それは自分の身に起きた時に自分でやってくれよ、僕の癌はあなたのものじゃない……

みんな、もちろん僕自身も含め、自分がデクノボーであることに耐えないといけないと思う。

「危口が病気になった」「重い病らしい」「実家に帰るらしい」「しばらくは入院らしい」「足腰も弱って歩けないらしい」「何かしてあげられることはないか」

ないのだ。

もちろん皆無ではない。何かはあるだろう。しかし、治療は病院が行っており、生活の支援は家族がやってくれている。遠く離れた友人知人ができる具体的効果的なことはほとんどないと言っていいだろう。だから、そこで決して無理をしないでほしいのだ。「何かできる」「しなきゃ」が暴走して、それで本や、あるいは消費しきれないほどの栄養食品がこちらに届く。そんなのはお互いに不幸だ。だから、「なにもできない」から考えはじめるのがきっと大事なのだ。

そうして、なんでもないことでメールをくれたり、ぼくが眺めているであろうTwitterのタイムラインに面白いことをアップしたり、もう、ほんとにそんな他愛もないもので十分なのだ。そしてもちろん、「なにもできない」ことをきちんと引き受け、なにもしないのだっていい。

病気のことを公表したときに僕は、「このたびのことで誰かや何かが恨まれたり不幸になったりしてはいけない」とTwitterに投稿した。これには人間だけでなく本や品物も含めていきたい。

こうしてみると、結局今回のできごとは、震災後にあちこちから上がった、「わたしたちに何ができるか」という声が引き起こしたあの騒動……の、ミニマムな反復だったと気づく。もちろん支援物資は大切だが、よくわからないものも被災地には沢山届いた。同じ過ちを繰り返すのはやめよう。

そんなことをさんざん考えた挙句、あられもない結論だが、やっぱりお金のかたちで支援を募るのがいちばんわかりやすくてよいと考えるに至った。ただ、その伝え方がなんだかイタズラっぽくなってしまったのはよくなかった。支援すると何か面白い読み物が読めるかのように受け止めてしまった人が何人もいたようだ。「残り12文字」と表記されてあるので問題ないと思っていた。今後同じ試みをすることがある場合は気をつけようと思う。なお支援金に関しては公開直後から多くの方からお振り込みいただき、当面のあいだ通信料金の心配をする必要はなさそうだ。ありがとうございました。


ところで、上記の「わたしたち」というのは大抵の場合「アーティスト」、あるいは「アート」であったりしたのだが、さて僕のこの病に対して「アーティスト」「アート」は何ができるのだろうか?


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