読谷山怪文書

高校生のころの僕は名ばかりの美術部員で、誰も来ない美術準備室に入り浸っていた。ひとりでいる方が好きで人と話すのも苦手だった。だから放課や授業後にはそこで本を読んだり音楽を聞いたり課題をしたりしていた。8帖くらいの少し埃っぽい部屋だったからわざわざ来るものなどいない。だからこそ僕だけの秘密基地となっていた。
 彼女と出会ったのは高校2年の4月、まだクラス替えが終わったばかりで学校中がなんとなくそわそわしていたころだ。いつものように美術準備室に向かうとすでに鍵が開いていた。こんな時間に誰だろうと訝しみながらドアを開けると、大人しそうな栗色三つ編みの女の子がひとり本を読んでいた。大きな眼鏡をかけていかにも文学少女といった風だ。僕に気づいたようで少し目を見開いてこちらを見た。長いまつ毛が揺れるようだった。
 びっくりしてしまって、その日はそれきりで僕は帰ってしまった。
 しかしその1週間後、今度は僕が準備室で本を読んでいるときに彼女がやってきて、そのまま僕の向かいに座ってそのまま本を読み始めた。何もわからなかった、彼女がだれでなぜここにいるのか。沈黙に耐え切れずに訊ねた。
 彼女は文芸同好会の会員で、実は文芸同好会の部室にこの美術準備室があてがわれていたのだという。そんなこと聞いてないというと私も最近知らされたのと答えた。
 いわく、文芸同好会は事実上は実体のない団体であり、しかし、顧問に相当する人物がなぜかこの教室の使用を今年になって急に認めたのだという。ずいぶんといい加減な学校だ。
 そして、彼女の名前を聞いた。ずいぶんと珍しい名字で一度では覚えられなかった。どことなく沖縄の地名のような名字だと思ったりもした。
 彼女が僕に聞いた。
「どんな本読んでるの?」
「今は星新一。小説が好きで」
「星新一は結構好きだなあ。読むのは小説だけ?詩とかは読まないの?」
「詩ってなんとなく苦手で」
「えー、もったいないよ」
そういうと彼女は詩がどんなに素晴らしいか語り始め好きな詩人についてプレゼンを始めた。やや大人びた声に似つかわしくないほどに彼女は饒舌だった。
 その日は結局それぞれが好きな本の話を日が暮れるまで語り合った。意気投合である。

 その後は特に約束するでもなく準備室で会うようになった。緩やかに互いにいろんなことを教えあうようになった。好きな本や作家の話に始まり、音楽や映画、様々なことを話した。それまで同世代の人たちとはほとんど趣味が合わずそういう話をしたいとは思わなかったかが彼女は違った。特にフジファブリックがお互い好きだと知ったときからなにやら引力めいたものを彼女から感じるようになった。
趣味の話だけでなくおよそ生きる上で必要に思えない知識も交換した。星の寿命や二度とは行かない街の名前や過激な芸術家の生きざまなど。本当に雑多な内容だった。時にはそれまでの短い人生で得た哲学とか幸福論みたいなものを語り合った。

 僕はキリンジを知り、彼女は中村一義を知った。
 僕は穂村弘を知り、彼女は椎名誠を知った。
 僕は眉月じゅんを知り、彼女は阿部共実を知った。
 僕はAKIRAを知り、彼女はリリイ・シュシュのすべてを知った。
 僕はドイツ語とヒンディー語が実は同じルーツを持つ言語だと知り、彼女はホヤが実は軟体動物よりもわずかに人間に近い存在であることを知った。
 
 月に2、3回のこと、基本的には本を読んだりして静かに過ごすことをよしとしたから大いに盛り上がるというわけではなかった。でも確実に互いの断片を互いに与え合う時間が心地よかったのだ。彼女が笑い三つ編みが揺れるたびに僕の心はにわかにざわめいた。

 僕らは学校のほかで会うことは決してなかった。それどころか僕は理系で彼女は文系だったので普段の学校生活でも関与することはなかった。でも確かに僕たちはあの狭い教室で互いの持っているものを与え合った。そしてその一方で、僕は彼女のことをかなり詳しく知るようになった。彼女の足音が分かるようになり、気分がよくなる鼻歌を歌ってしまうことに気づき、本を読む彼女の制服の袖のしわの数を数え、彼女のかける眼鏡が途中で変わったことに気づいたりした。
 僕は彼女を見ていた。
 いかにも大人しそうな彼女は確かに学年でも目立つ存在ではなかったように思う。しかし、話してみるとおしゃべりが好きで、冗談も言う。いらずらっぽくからからと笑う姿は見た目以上に子供っぽい。
 ほかにどれほど彼女の笑い方を知っているひとがいるだろう。どれほど彼女の子供っぽい姿を知っているひとがいるだろう。どれほど彼女の眼の美しさを知っているひとがいるだろう。彼女の好きな本や歌や言葉や、彼女の生きてきた断片をこれほど知っている人がほかにいるだろうか。そして、彼女もまた僕がこれまで人に語らなかったこと、それも同世代のものにはおよそ理解されないだろう趣味や嗜好や価値観を知っていて、つまり僕らふたりは互いにしか知りえぬ秘密を共有する特別な関係にあるように思えてならなかった。
 そういう関係が1年ほど続いた。彼女の着る服が変わるたびに季節が変わったことを知った。

進学して3年生の5月の、窓の外の新緑がまぶしい日のことだった。普段のように静かに本を読んでいた彼女が突然顔を上げて
「だいせんじがけだらなよさ」
と無邪気に叫んだ
「え、なに?」
「だいせんじがけだらなよさ」
「それは……え、なんなの?」
「ははっ、何でもないよ」
 その場ではごまかされてしまった。言語さえも分からぬその呪文を2度聞いただけで覚えられるはずもなかったが、なんとなく気になったまま。
 
 その後しばらくして部活の(名目上の)引退や受験勉強の本格化が重なり僕が美術準備室に行くことはほとんどなくなった。当然、そこでしか会うことがなかった彼女と会うこともなくなった。時間があれば時々訪れていたのだけれど、やはり彼女はいなかった。

 結局、ふたたび彼女と会ったのは受験の終わった2月のことであった。雪の降ろうとする寒い日の午後のこと、いつもの準備室に彼女はいた。やっぱり本を広げていた。
「久しぶりだね」
 何を言えばいいのかわからなくてつまらない社交辞令が口をついた
「あ、久しぶり」
「それは……なんの本?」
「今日はねえ、寺山修司の詩集」
 そんなことから、いつものような緩やかなやり取りがまた始まった。
日が傾いてきた。彼女はもう帰るねといって立ち上がった。
 そうだ、こんな普通の「他愛ない会話」をするために今日はいるんじゃない。今、言わなければいけない言葉がある気がした。
「あの……さあ」
「ん?なに」
「あ、いやぁ……あの、ううん、なんでもないよ」
 なんでもないわけがなかった。言いたい言葉が、聞きたいことが喉元まであふれてきたのに、僕はそれを飲み込んでしまった。
「そっか。じゃあまたね」
「またね……」
「あ、そうだ」
去り際の彼女が急に振り返る。
「だいせんじがけだらなよさ!」
そういって彼女は足早に去っていった。雪の降る夕暮れのことであった。
 
 僕は故郷を離れ寒い街の大学に通った。春に卒業することも決まった。結局、彼女とはあの2月以来会っていない。卒業式の日に準備室に行ってもいなかったし、2年後の同窓会にも彼女の姿はなかった。それなりの歳月が流れたからだんだんと彼女に関する記憶も自分の中で薄れていた。彼女の髪のリボンの色を忘れ、彼女の石鹸の匂いを忘れ、彼女の誕生日を忘れ。やがては彼女の声を忘れ、顔を忘れ、名前も忘れるのだろうか。そう思ってみても何も変わらなかった。そして彼女が私に投げかけた呪文のような何かが

 卒業を控えた3月、大学の図書館で柄にもなく詩を読もうとしていた。何から読めばいいのかわからなかったから、有名そうなものを作者から探してみる。書架は作者の名前順に並んでいた。ざっと見ていくとタ行で目が止まった。

 最後に会ったときに彼女が読んでいた詩人。そういえばちゃんと読んでなかった。おもむろに手に取ってみた。パラパラめくってみると、詩に疎い僕だったがとりあえず直感的には好きなタイプだった。そのままめくり続けるとなんとなく目を止めてしまうページがあった。頭の中で繰り返し読んでいくうちに彼女のいたいたずらっぽい声がよみがえってきた。
 
―さみしくなると言ってみる
ひとりぼっちのおまじない
わかれた人のおもいでを
忘れるためのおまじない
だいせんじがけだらなよさ
だいせんじがけだらなよさ―

 どうして彼女が僕にこう言ったのか結局わからなかった。彼女が何を見つめ僕のことをどう思っていたのかますますわからなくなった。それでも、たとえ僕が彼女のすべてを忘れてしまったとしても、それは決して空しいことではないと気付いた。きっとこの先の人生で彼女と再び会うことはないだろう。それでも、彼女といたという事実があれば、それだけで僕は残りの人生を生きていけるような、そんな気がした。
 なんとなく体が軽くなった気がした。僕は詩集を書架に戻して図書館を去った。引っ越しの荷物をまとめなければならない。

―さかさに読むと
あの人がおしえてくれたうたになる―




あとがき

完走した感想(激ウマギャグ)ですが、脳みそ豆腐で書いてました。視線がやや具体的できもいのがポイントです。個人的な趣味を反映させるのもやばいですね。あと、詩の引用がいろいろ引っ掛かりそうかもしれんわ。

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