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三浦梅園とわたし⑤

2004年、息子の中学受験が終わったのを機に、私は仕事を始めることにしました。

私が週に4日働いている間、子ども達はなんだかんだで成長し、それぞれの興味と関心と能力に見合った進路を見つけて行きました。

気付けば、私は中年、人生の春も夏も過ぎさって、秋の季節に入っていたのです。

思えば、院生時代からいくつかの学会に入っていましたが、退職や出産を機に退会し、今となっては籍を置いている学会は、梅園学会ただ一つになっていました。

40年もの間、梅園学会に居続けたのは、恩師のO先生の存在と、やはり三浦梅園の哲学への憧れがあったからではないかと思います。
茫漠とした梅園哲学の世界には、必ずや肥沃な大地が眠っているに違いない。
今の自分の目には見えなくとも、いつかきっと、その神髄に触れられる日が来るはずと、夢見ながら生きてきたのです。

2017年には、福岡県福岡市で、梅園学会が開かれ、私は思い立って出席することを決めました。
それまで東京近辺で開かれた会の時にしか出席したことがなかったのですが、福岡市と聞いて、ある策が思い浮かびました。
『湯布院温泉へ行こうと言って、夫を連れ出せばよい』
初日と翌日の学会発表を私が聞いている間、夫には観光をして来るようにと勧めました。
太宰府でも博物館でも、福岡なら見物をする所がたくさんあります。
翌日、学会が終わった後に、夫と合流し、レンタカーで湯布院へ向かいました。
湯布院で2泊し、温泉ライフを堪能した後、大分空港へ行く前に、梅園資料館へ寄りました。
梅園旧宅も外から見学して、充実した4日間は終わりました。

2019年の梅園学会は、東京大学の山上会館で、2020年は池袋で開催されました。
いずれの会にも出席した私の耳に、
『いよいよ三浦梅園生誕300年が迫って来た』
という声が聞こえるようになって来ました。

三浦梅園生誕300年、それは2023年のこと、つまり今年です。

その年を目指して、梅園学会では、まずはその前年の2022年に、
「梅園先生 生誕三百年記念特集その一」
と銘打った「梅園学会報 第47号」を刊行することが決まりました。

猫子ぱんださん、いい加減に何か書きなさい」

40年間、何も書かず、何も発表しないで梅園学会に居続けた私に、O先生から、厳命が下りました。

「せっかくの300年記念誌なんですから。論文でなくていいから、梅園に対するあなたの思いを書けばいいんですよ」

そこで、自分にとっての三浦梅園というテーマで、文章をまとめ、O先生に送ったところOKが出て、2022年の学会誌に載せてもらいました。

「あなたも執筆者の一人だから、友人や関係者に送るなりして活用して下さい」

O先生からは、去年の秋、出来上がった数冊の学会誌が送られてきました。

誰に送ろうか、色々考えて、私はM教授を選びました。
もう90歳は越えているはずですが、毎年年賀状の返事は来るので、お元気でしょう。
若い頃は、M教授から、本を出版される度に、署名入りで送って頂きました(お医者さんの文筆家というのは、案外多いものですね)。
今度は私の番です。
M教授を驚かせよう。

そう思って送ったのに、驚かされたのは私の方でした。
彼は私の許へ、三浦梅園の弟子だった人の末裔を連れて来たのです。

どういうことかと言うと――。
年末になって、M教授からお返事が来ました。
その中で、彼は自分も三浦梅園を知っている、と書いていました。

『昔、第一外科の医局にS先生という方がいてね、教え子ということになるかな、私とは長い付き合いなんですよ。
彼は大分県杵築市の出身でね、まあ「天才」だね。
彼は、杵築市で300年以上続くという旧家の出だが、今は故郷を離れ、東京で、その分野では日本一との名声を得ていますよ。
おかげで、故郷の医院は閉めることになって、親御さんには申し訳なかったが、今は実家の家屋は杵築市の管理で、歴史的建造物ということになっています。
彼の故郷では、三浦梅園は大変な有名人だから、私も知っていたという訳です』

S先生の記憶はまったくありませんでした。
私は早速、ネットでS先生のことを検索してみました。
出てくる、出てくる・・・。
教授の言葉は、あながちお世辞ではなかったのですね。

そして、検索の末、私が見つけたのは、以下のような内容のSNSの文章でした。
書いた方は、S先生のお知り合いのようでした。

「S君のお家は、有名な旧家で、その先祖には、三浦梅園と交流のあった人がいたことも、史実に残っている」

これは、S先生のご先祖様と、三浦梅園との間に交わされた、書簡でも残されていたのか。
あるいは、どなたかの日記に、ご城下のどこそこの会合で、二人が会ったと書かれていたとか。

私は、そんな風に思い、わくわくしてくる思いを胸に、さらに調べていくと。

それどころではありませんでした。

1984年の梅園学会報の中に、すでにS先生のご先祖様の名前が、はっきりと載っていたのです。
その名も、佐野玄遷。
杵築藩の御典医、佐野家の一族でした。

佐野玄遷は、幼い頃より学問を好み、三浦梅園の門人となり、条理学を学んだ人でした。
その理解も深かったと言われています。
三浦梅園が、別の弟子(池辺橘左衛門)に送った手紙の中に、
「『贅語』(の写本)は、佐野玄遷君の本です(から、読みたい場合には、彼から借りてください)」
という一節があるほどです。

その上、三浦梅園が佐野玄遷のために書いた、撰文が残っていました。
「達亭記」と題した漢文で、玄遷の父、尚貞が上町に新邸を建てた時に、屋敷の名を付けてくれるように梅園に頼み、梅園は「達亭」と名付けた、というものです。

この「達亭記」の名は、田口正治先生の著書、「三浦梅園」の巻末にある「略年譜」の、1786年の項目にも、ちゃんと記載されていました。
私は、まったく気付かず、見落としていたのです。

S先生は、実に、三浦梅園の愛弟子の末裔だったのです。

M教授の仲介で、私はS先生と連絡を取ることになりました。
S先生は、ご先祖様の関係から、三浦梅園に興味を持っていたこともあり、梅園学会に入会されました。
S先生も私と同じく、医局長秘書だった私のことは記憶にないそうですが、私がはっきりと覚えているN先生と同級生だそうですから、確実に医局で会っているはずです。


「三浦梅園が生まれて、今年で300年。
それに合わせて、色々調べていくうちに、過去知っていた方が、思わぬ形で、現在に影響していることがわかってきました」
――これはM教授のことです。

「そして、お互いに記憶になくても、若い頃、確実に会ったことのある方が、実は昨年の私にとってのキーパーソンだったということも」
――これがS先生なのでした。

次回、田口正治先生の次女、K様のお話をして、「三浦梅園とわたし」は完結いたします。

#創作大賞2023

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