4/30 「銀河美少年について」、「永遠について」

 要するに俺は、銀河美少年になりたいと、心の中で、恥ずかしそうに、弱々しく、呟いてみるのですが、現実は、あまりに厳しい。単なる気の持ちように過ぎないと言ってしまうのは簡単だけど、いや本当に、簡単なことなんだけれど、なんもかんもだめです。
 銀河美少年というのは、『STAR DRIVER 輝きのタクト』というアニメに出てくる設定です。ツナシ・タクトという子がいます。彼にはナツオという無鉄砲な友達がいました。彼にはハナという初恋の子がいました。彼らはいつも3人でつるでいて、正確には、2人と1人でつるんでいて、いつもナツオの無鉄砲な計画に2人は引っ張られていました。ナツオはある時人力飛行機を作って、空を目指すようになりました。タクトにはめちゃくちゃ好きなこととか情熱とか特に無い普通の子だったから、ナツオのことはよくわからなかったんだけど、ちょっと羨ましそうな顔でナツオを見ていました。ナツオは空を飛んだ後、程なくして病気で死んでしまいました。ハナはナツオの病気のことを知っていました。タクトはいてもたってもいられなくなって、ナツオの見ていたものを知るために、空を飛びます。蚊帳の外にいた子は、こうして銀河美少年になりました。以上、銀河美少年の説明終わり。

 俺は村上春樹で一番好きなのって『羊をめぐる冒険』だな。タクトほど若くない、スカした青年が、それでも銀河美少年になってみようとするんだから。

 タクトって自分の過去のことを絶対に自分から語らない(上記のエピソードも、アニメらしく他キャラが超能力で視てしまったものだ)から、銀河美少年になった後のタクトしか知らない人は、タクトが最初から銀河美少年だったように見えてしまうんだけれど、全然そうじゃない。多分、主人公みたいに見える人って皆そうなんじゃないかな。この世界にいると、誰も彼も「自分は(そうありたいけど)主人公じゃないから」という言葉を呟いて、そんな悲しいこと言うなよ、と僕は思うのですが。主人公のように見える人って何が違うんでしょうね。僕は、自らの運命それ自体の手綱を、自ら握ろうとしている人間のことではないかと、思うのです。結果的にどうであれ、握ろうとしていること自体が、その人の主人公性なるものを出力していくのではないでしょうか。

 村上春樹はオウムを取材した際、自分の物語を他人に委ねてしまう怖さについてこう述べています。

 物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である。あなたは物語を作る「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。
 しかしあなたは(というか人は誰も)、固有の自我というものを持たずして、固有の物語を作り出すことはできない。エンジンなしに車を作ることができないのと同じことだ。物理的実体のないところに影がないのと同じことだ。ところがあなたは今、誰か別の人間に自我を譲り渡してしまっている。あなたはそこで、いったいどうすればいいのだろう?
 あなたはその場合、他者から、自我を譲渡したその誰かから、新しい物語を受領することになる。実体を譲り渡したのだから、その代償として、影を与えられる──考えてみればまあ当然の成りゆきであるかもしれない。あなたの自我が他者の自我にいったん同化してしまえば、あなたの物語も、他者の自我の生み出す物語の文脈に同化せざるを得ないというわけだ。
(村上春樹『アンダーグラウンド』)


引き続き永遠について考えています。

おれがいつも詩を書いてゐると
永遠がやつて来て
ひたひに何かしらなすつて行く
手をやつて見るけれど
すこしのあとも残さない素早い奴だ
(室生犀星『はる』)
げに田舍に於ては、自然と共に悠悠として實在してゐる、ただ一の永遠な「時間」がある。そこには過去もなく、現在もなく、未來もない。あらゆるすべての生命が、同じ家族の血すぢであつて、冬のさびしい墓地の丘で、かれらの不滅の先祖と共に、一つの靈魂と共に生活してゐる。晝も、夜も、昔も、今も、その同じ農夫の生活が、無限に單調につづいてゐる。そこの環境には變化がない。すべての先祖のあつたやうに、先祖の持つた農具をもち、先祖の耕した仕方でもつて、不變に同じく、同じ時間を續けて行く。變化することは破滅であり、田舍の生活の沒落である。なぜならば時間が斷絶して、永遠に生きる實在から、それの鎖が切れてしまふ。彼等は先祖のそばに居り、必死に土地を離れることを欲しない。なぜならば土地を離れて、家郷とすべき住家はないから。そこには擴がりもなく、觸りもなく、無限に實在してゐる空間がある。
 荒寥とした自然の中で、田舍の人生は孤立してゐる。婚姻も、出産も、葬式も、すべてが部落の壁の中で、仕切られた時空の中で行はれてゐる。村落は悲しげに寄り合ひ、蕭條たる山の麓で、人間の孤獨にふるへてゐる。そして眞暗な夜の空で、もろこしの葉がざわざわと風に鳴る時、農家の薄暗い背戸の厩に、かすかに蝋燭の光がもれてゐる。馬もまた、そこの暗闇にうづくまつて、先祖と共に眠つてゐるのだ。永遠に、永遠に、過去の遠い昔から居た如くに。
(萩原朔太郎『田舎の時計』)

 犀星の永遠は、捉えがたい一瞬のことらしいです。朔太郎の永遠は、もっともっと間延びして、だらしのない感じ。朔太郎には『死なない蛸』という、これまた永い永い遠い遠い無時間についての詩があります。
 永遠ってなんなんですかね。
 foreverとeternityの違いもよくわからないし。誰か教えて。僕に永遠のことを教えて。なんにもわかりません。
 永遠と永続の違いははっきりしていますね。永続は、必ず直線を描く無限のことだけれど、永遠は、直線から隔絶された無限のことだと思います。少なくとも犀星と朔太郎が想定している永遠は、性質こそ違えど、どちらも直線を描きません。ここに永遠について知るための重要な手がかりがあります。

 図書館が開いたら、語源辞典を開きたいな。

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