僕には永遠がわからない

死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(訳:野矢茂樹)
一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を
一時のうちに永遠を握る

ウィリアム・ブレイク『無垢の予兆』(訳:松島正一)
また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去(い)つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去(い)つてしまつた。

アルチュール・ランボー『永遠』(訳:中原中也)
永遠しかない。本当に、世界はすべて永遠のものだけで満たされている。

榎戸洋司(『忘却の旋律脚本集 忘却①』より)
キティちゃんのギターで貴方を撲殺いたします。貴方の頭蓋骨が粉々になるまで、返り血を浴びながら、何の躊躇もなく、大勢の人達の前で、私は殴り続けます。貴方は私の手によって、永遠になるのです。

嶽本野ばら『ミシン』
12日午前10時半ごろ、さいたま市の中学校の校舎の下で、中学2年の女子生徒が倒れているのが見つかり、死亡した。女子生徒の遺書には、「いじめや家族間のトラブルではない。楽しいままで終わりたい」などと書いてあったということで、校舎から飛び降り自殺したとみられている。

2017年1月13日のyahooニュースより(執筆者不明)
永遠であって欲しいと思った時から感傷は忍び寄ってくるんですよね。いつか私達は定期的に会うことも無くなり、私は今日の思い出をマイルストーンか何かのように打ち込んで、折に触れて振り返ることになるのかもしれない。そんなの本当に嫌なんですよ。ハンドスピナーで五年は遊びたい。遊びたかった。もう遊んでない。いつかこんな物凄く最高な人間関係ですらハンドスピナーの箱に入れることになるとは思いたくないんだよ。これは未来の私に言っている。絶対入れないでほしい。

斜線堂有紀『永遠という言葉を思いついたやつと仲良くはなれない(ということを言うような十五時間前の自分とは仲良くはなれない)』
http://syasendou.hatenablog.com/entry/2019/07/21/022145

 全く僕には永遠というものがわからない。どいつもこいつも好き勝手に「あれが永遠だ」「いやこれが永遠だ」とあれこれ言うものだから、話がこんがらがって頭がおかしくなりそうだ。
 さて、ウィトゲンシュタインから榎戸洋司までの「永遠」は「刹那の永遠」だ。一瞬が永遠だという。そして刹那でないものなどこの世界には存在しないから、この世の全てが永遠だ。永遠は無時間的なものだという。
 ウィトゲンシュタインから榎戸洋司までは「この世すべてが永遠」だが、嶽本野ばらと少女の永遠には条件があるようだ。嶽本野ばらは最愛の誰かを殺してそれを永遠と呼ぶ。自殺した少女は中学二年生を生きる楽しいわたしを指して永遠と呼ぶ。過ぎてゆく時の運動を無理矢理停止させたものを永遠と呼んでいる。
 そして斜線堂有紀の永遠とは、ウィトゲンシュタインが言うところの「時間的な永続」のことだ。「ハンドスピナーで五年は遊びたい」という一文にあるように、斜線堂有紀の永遠は時間的な束縛から出ることはない。だから斜線堂有紀は永遠を嫌っている。というよりも「時間的な永続」を嫌っている。
 一般的に使われる「永遠」という言葉は「永続」「永久」と殆ど区別されることがない。だが敢えて「永遠」という言葉を用いるならば、それは「永続」や「永久」と明確に区別されているべきだと思う。永くて遠いもの。それを永遠と呼ぶならば、無時間という彼岸へ辿り着いた無限に連なる刹那こそ永遠と呼ぶにふさわしいと僕は思う。このために僕は斜線堂有紀的な永遠観を支持しない。
 嶽本野ばらと中二の少女は、対象の運動を停止させることで永遠を生成する。永遠はそのまま放置しておくとダメになってしまうから、時の運動を無理矢理停止させることで人為的に生み出されるのが永遠だという。ただこれには大きな欠陥がある。嶽本野ばらの場合、「死んだ人間を解釈するわたし」が永続的でなく、既存の摂理に則って運動を続けるため、わざわざ殺す意味が無くなってしまう。中二の少女は死んだ時点で永遠の解釈者たる自らの意識が消滅するため、どこにも永遠はなくなってしまう。
 ではウィトゲンシュタイン的永遠を僕は支持出来るかと言えば、これも怪しい。「世界はすべて永遠のものだけで満たされている」というのは、言い換えれば「わたしが解釈可能な世界はすべて永遠のものだけで満たされている」ということになる。つまり解釈不可能になった瞬間永遠は消えてしまうように思うのだ。僕は完全な記憶マシンではないから「太陽もろとも去ってしまった海」のことをいつの間にか忘れているかもしれない。その場合、かつて永遠だった海は永遠ではなくなる。というよりこの宇宙(わたしの宇宙)より消えてしまうのだから、あらゆるラベリング、カテゴライズが全く不可能になってしまうだろう。
 だから僕には永遠がわからない。「永遠がわからない」という事実から永遠の存在こそ知っているものの、永遠それ自体が一体どのようなものであるのかは、一生わからない。アウグティヌスならば、神の言葉を指して時間から隔絶された絶対の存在を理解するだろうが、僕はクリスチャンではない。
 君は永遠とは何だと思う?

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