ネコを脱出せよ

 ここではないどこか。この世界から脱出するための方法。それは猫を脱出することにある。
 第一猫宇宙速度。さらに加速して、第二猫宇宙速度。公転する猫の近くを加速スイングバイで通過したわたしの体は、猫より飛び立つ。猫の外側へ向かう意志は、やがて宇宙の外側へ向かって加速していく。

 異星人というメタファーで「”異邦人”さえも驚く猫のかわいさ」を表象することにどれだけの意味があるのだろう。「地球人はなんてスゴイ!」というしょーもないオナニー以上の意味を、私は感じることが出来ない。ことが「地球人」で済むならまだマシで、異星人はおろか日本文化圏外のホモ・サピエンスを探すまでもなく、「猫をかわいいと思えない日本人」は存在する。或いは「”猫がかわいい”という表象を倫理に反する形で行う日本人」もだ。こうしてみると、この表現のグロテスクさがわかるだろう。「架空の、自分の外側にいる誰かに、自分の文化圏を自分の文脈と同じ形で褒めて欲しい」という卑しいグロテスクさが。「外側のもの」は異質である故に外側と解釈せざるを得なくなるのだ。もし明確な接続や手応え、自らのうちにある既存の文脈によってどうこう出来るならば、それはもはや「異なるもの」「ホラーなもの」ではない。
 これが例えば「猫を殺して遊ぶことがやめられず、倫理的齟齬から苦しんでいる地球人が、地球人と別の常識を持つ異星人に見出されて自己実現を果たす」という物語なら、これには力がある。現実世界から跳躍する、フィクションの力がある。藤子F不二雄『ミノタウロスの皿』のように。
 だがこの物語に現実世界を跳躍する力は無い。この物語を欲する類の人間は、現実に猫を愛でればよいのだから。

 この世界は猫の引力に支配されている。ここではないどこか、それは猫の引力より加速したその先にある。

※私は猫が嫌いではない。写真を見てかわいいと思う。だが現実に触れるのは得意ではない。写真の猫が怖くないのは、静止しており、かつ理解可能な文脈の上に立っている生物だからだ。だが生身の動物は予測不可能な動きをするから、檻を介さずにはとても接する気になれない。私にとって自らの文脈の外側にいる存在、予測不可能な動きをするものは全て「異なるもの」「ホラーなもの」だ。むしろホラーなのは異星人の方ではなく、猫の方だと言える。その意味では、この作品は異星人にとっての猫を「ホラーなもの」として描いており、好感が持てる(異星人が地球人と同じ「かわいい」という既存の文脈によって自らの内に喚起されたホラーな衝撃を理解している点はムカつくが)。だが猫を「ホラーなもの」として捉えるのに、わざわざ異星人というメタファーが必要なのかはやはり甚だ疑問だ。「自分以外の生物をまだ知らない小さな子供」とか使った方がいい。そもそも、当の猫好きにしてみても、猫にどのような思惑があって自分と仲良くしているのかは分からないのだから、その点に於いてホラーである。異星人というホラーを持ち出すまでもなく、猫は初めからホラーだ。

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