『生き方』よりも『死に方』を考える

こんにちは🌞

お元気ですか?

こちらは小雨が降っています☔️

みなさんの街はどうですか?

今日は最近思ったことをつらつらと。

世の中の人々がコロナという言葉が消えかかっているのでは?

と思うほどに

何事もなかったような日常が流れていく。

きっと、こんな日々だった。

きっと、こっちが通常だった。

だけども私はコロナ禍の

あの時空が止まったような

そんな空間に、不謹慎にも安心していました。

もちろん生きているからこそこう思えるし

色んな人が大変な思いをしたし

かくいう私も近い人を亡くし

心から辛い思いもした。

だけども街に人がいなかったり

人付き合いが減ったり

スケジュールがスカスカになっていたあの空間に

とっても安心したんです。

その頃から私にとって

“安全な場所”が必要なんだって思った。

自分の家、大切な人との時間、一人の時間、自分を労る時間、

私にとっての“安全な場所”がなくてはならなくなってしまった。

そこから環境が変わり

付き合う人たちが変わり

私のペースを崩さず窮屈にならない場所で

呼吸がしやすい生活を心がけている中

周りの人たちの速度がどんどん速くなっていく。

そしてすり減っていく姿を眺めている。

『私もあそこにいたんだなぁ』

って、物思いに耽る。

そんな景色を眺めていると

本当の『幸せ』とは何なのだ?

と考える。

私はいつも焦っていた。

生きているうちに、何か成し遂げなければ!

とか

生きているうちに!生きているうちに!

って

実際の寿命は誰にもわからない。

私が、周りの人が生きていることを

当たり前みたいに言うけれども

いつ誰がどうなるかなんて誰にもわからないのに

いつも何かに追われて走ってすり減って

疲れて全てやめたくなって

そんなことを繰り返していたのだ。

だけどそんな生き方しか知らなかった。

がむしゃら ってやつでしょうか。

時間が止まることが怖かった。

私が誰にも必要とされていない時間が怖かった。

友達がいない、私を好きな人が誰もいない、

世界の誰一人として私を見ていない、

そんな時間が怖くてたまらなかった。

だけど今やもはや

誰も私のことを好きじゃなくてもいいわ

私は私の好きなことをして

私は私で好きな人を選んで

私がいらないと思ったら私の意思で捨てるから

私は私でやってくわ

って

そんな風に生きるようになった。

『生き方』よりも『死に方』を考えるようになった。

元々、死ぬことを考えて生きてきたから

私にとって自然なことではあるんですけど

幼い頃からずっと

早く人生を終えたいと思いながら

生きるに勤しんでいましたから。

だけどいつしか

『どうせいつかなくなるなら、おばあちゃんの私も見てみたいなぁ』

そう思うと

歳を重ねることや、くたばることが怖くなくなったのです。

きっと

素敵な人生の先輩がこの世にいてくれたからでしょう。

本やネットや映画で受け取ってきた言葉たちは

誰かが生きてきた経験から生まれた言葉たちで

それを浴びることでどれだけ救われてきたことか

人が生きるということは

誰かを救うことだ

って

心底思うんです。

きっと人生の先輩たちは

誰かを救おう!だなんて思いながら生きたわけじゃなく

只々『いま』に一生懸命向き合ってきた

それだけのお話なんだって思う。

それを質問された時に答える

それだけで質問した人たちが救われる。

私もそうなれるのかな?

そう思ったら、生きることも悪くないよね

って。

そんな私になれてから死にたいな

って。

SNSや本や

色んなツールに書かれている

『夢を叶えろ!!』

みたいな熱い炎は

時には火傷を負わせることにもなるように

焚き火やロウソクの炎で

ほんの少し先を照らすような

じわりと暖かいような

そんな生き方をしてから死にたいなぁと。

死に方が生き方になる

そんな風に思う近頃の私です🤲🏻

みなさんにとっての意見もまた聞かせてね

きいらでした☺︎

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