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デザインから農業への転身。木更津の山林でブルーベリー栽培を始めた江澤貞雄さんのど根性精神。

千葉県木更津市の一風変わったブルーベリー農家、江澤貞雄さん。一般的にブルーベリーは畑で育て、水をしっかりあげて、ピートモスという腐葉土に近い土を使うことが多い果樹です。

ですが、江澤さんの栽培はど根性栽培といって、ピートモスを使わず、肥料も少なめ、山の大地に直接植える、なんとも野性味あふれるやり方です。そんな江澤さんに栽培方法を学びに来るひとは後を絶ちません。

3年前、聞き書き甲子園で高校生の取材を受けてくださったのですが、今回の再訪では、更に規模を広げる農園の秘訣と、江澤さんのルーツを伺いました。デザインの仕事から農家への転身。気になります。

真逆を始めた

ブルーベリー始めた頃はね、水を好むと言われていたの。だから、熱心に水をあげすぎた。井戸まで掘った人いるんだよ。

みんなで7ヘクタール植えて、そのうち4ヘクタール以上が枯れちった。それでもね、残った農園もあるわけよ。残ったところを見ると、水がやれないところ。

山のなかにある畑とか、あんまり水をかけらんないから、乾燥しないようにもみ殻とか藁を敷いている。そういうところが残っていた。それで、「水のやりすぎの根腐れだな」って気づいたの。それから、真逆のことを始めた。

山のブルーベリー

山林はあったからね、そこにブルーベリーを植えた。普通、山でも木を伐採して、抜根して、平らにして、整地して農業始めるんですけどね。でも、山の頂上らへんですから、そういうことはできない。

たまたまアメリカへブルーベリー農園を視察する機会があって、そこでは山にも自生していたのよ。日本でも気候が温暖で適したところであれば大丈夫じゃないかと思って、山に植えようと思ったの。

荒れ放題の竹を全部切って、そこに小さな苗を植えた。
そしたら、一本も枯れなかった。

(山林の竹を夫婦で伐採した)

“王道”に憧れていたあの頃

もともとね、農家になる前は商業デザインの仕事をやっていたの。ポスターをつくったりだとか。絵を描くのは好きだったし、昔はデザインって憧れる職業だったと思うんだよ。

ポスターとか描く人いっぱいいてね、有名な人のはすぐ剥がされちゃったり。誰しもそういう有名人になりたいと思うじゃない?日本一になりたいとかね。

それを実家に帰って農業やろうなんて、思っちゃいないよ。たまたま家を継ぐことになったから戻ってきたの。私は次男で、長男が分家することになってね。

こっちに戻ってきてもデザインを続けようとは思ってなかった。夜遅い仕事だから、何時になるかわかんない。できないなぁと思って、そしたら諦めも早いよ。

何しろ、東京湾アクアラインが(1997年に)できてね、無農薬でつくったブルーベリーを皆さんに食べて頂いたり、山に来てゆっくり楽しんで頂いたりできるんじゃないかなって。こりゃいいなということで。アクアライン開設と共に仕事を辞めて、農園づくりをはじめたの。

それから20年が経過して

今、ブルーベリーをつくっている農園はたくさんあるんだけれども、もともと農家の人っていうのはほとんどいなかった。だから成功しているのかもしれないなぁ。

農家を何十年もやって知識がたくさんある人は、私が「肥料は一株に味噌汁のお椀1杯でいいんだよ」って言っても信じないよね。だけど、初めて農家やる人は言われた通りにやるから、3、4年経った時にあっという間に農園ができちゃう。

学校の先生なんかで定年になってブルーベリー始めたいって人多いのよ。「定年3年前に来ればよかったね」って言うの。植え方は私のど根性栽培だから、植えたら3年間は学校の先生やってりゃいいんだからね。

だけど、定年になってからだと、時間もあるから毎日気になってしょうがないじゃん。植えたら見に行ってもいいけど、ポケットに手突っ込んで、見て、帰ってくるんだよって言うんだけどね。

仕事は草刈りだけ。ブルーベリーを植えたらあとは何もやっちゃいけない。私の言う通りというのは、ブルーベリーを植えたら、あとは何もやっちゃいけないというのが、言う通りですよと。だけど、俺は横着だからちょうどいいよとか言う人に限ってね、ブルーベリーを一生懸命やっちゃう。

そうやっていろんな人が農園を設立して、3年くらい経つとちゃんと伝えるんです。「あなたたちはブルーベリー簡単に作れるなぁって思ったでしょうけど、私のやり方通りにやったから実ったんですよ」って。そうでないと、農業が簡単なものだと勘違いしちゃうからね。


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