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兼松さん17歳①:とにかく秋田を出たかった

おしゃべりが好き。自分のことを話すのも、相手の話を聞くのも好き。人と違うことをするのが好き。空海が好き。今は京都に住んでいる。兼松佳宏さんは、僕がインターンしているNPO法人グリーンズのWEBマガジン「greenz.jp」の元編集長でもある。

僕はgreenz.jp元編集長としての兼松さんは知っているが、それ以外の兼松さんのことはいっさい知らない。ワークショップやイベントでは、これでもかという程の身振り手振りで、どんな話も面白そうに話す兼松さんは、御茶目で元気いっぱいな、太陽のような人だ。

それでいて、見えないところで人一倍熱心に仕事や勉強をしている。
「どこからそのエネルギーが出てくるんだろう?」
「小さいころから兼松さんは『兼松さん』だったのか?」色んな疑問が湧いてくる。それを確かめたい!と思った。

秋田出身の兼松さんと佐賀出身の僕。東北と九州だけど、どちらも「なかなかの田舎」で、勝手に親近感を感じていた。インターン先の上司という以上に、とても人間らしく、尊敬できる「人生の先輩」といった感じ。そんな兼松さんの若き姿を追いかけた。
(書き手:永田健一朗)

カルチャーと勉強のギャップ

今振り返ると17歳の頃って自分にとってとても大きい時期だったんだなって思う。だからエピソードは多いよ(笑)。何から話そう。ざっくりいうと”カルチャー”に目覚めたのがその頃かな。初めて床屋さんじゃなくて美容院に行ったのも17歳。

小学生の頃はずっと短めのスポーツ刈りで、中学からはずっと真ん中分けだったけどなんだか嫌になってきたの。それで美容院へ行って、いろいろ新しい髪型にチャレンジしたりとかしてね。そのとき、初めてオシャレな雑誌に出会って。そういうカルチャーっぽいこととの唯一の接点が美容院だったの。

ちょうどトレインスポッティングが流行っていた時期だったけど、そこで映画とか音楽とかに感化されて。SEX PISTOLSのシド・ヴィシャスにしてください、ってお願いしたこともあったかな。

当時はビジュアル系にもはまっていて、バンドのボーカルとして学園祭でオリジナル曲を披露したり。もう、エネルギー有り余ってるから、卒業アルバムにもMILK BOYの指輪をつけてパンクな髪型でカッコつけたりとかしてね。

そういうこともやりつつ、受験勉強もめっちゃしてた。勉強は嫌いじゃなかったんよね。図書館に入り浸って、疲れたらミスドに行ってまた勉強して。今思うと、ふざけたり、まじめだったりギャップを大事にしていたのかも。

夢はファションデザイナー

高校生のときになりたかったのはファッションデザイナー。それは絶対に雑誌の影響だと思う。当時はお年玉もらったら、わざわざ仙台のBEAMSに行ったりとかしてたから。

あとは父親の作業着をリメイクしたりとかもしていたし、学園祭で女性もののコムデギャルソンを来て、キャットウォークを歩いたこともあった。

とにかくファッションについて考えるのが楽しかったし、オシャレなファッション業界で仕事をしたいと思っていた。まあ、今思うとデザイナーとしてデザインをしたかったのか、バイヤーとして買い付けをしたかったのか、ショップ店員として売りたかったのか、全然分かってなかったけどね。

ファッション好きはいつから?

17歳くらいまでは全然興味なかったかな。私服OKの高校だったんだけど、恥ずかしくて毎日制服っぽい格好してた。いまも毎日白いシャツだからあんまり変わってないかも。

ちなみに小学校では野球部で、中学ではバスケだったんだけど、スラムダンクの影響だけじゃなく、「丸坊主はやだな」っていうのは大きな理由だった。それも一つのメッセージかもしれない。

あとは、正直いうと17歳くらいから女の子と話すのが楽しいな、と思うようになって。もともと自分のことを鏡で見るのがなぜか好きだったけど、ますます外見を気にするナルシストになっていったかも。でも、「ナルシスト=客観的にメタ認知できる人」って前向きに捉えてる(笑)

秋田から東京への進学「皆残るの?俺出る!」

18歳のときに、進路を親に相談してね。ファッションと言えばフランス。それだけの理由で、上智大学のフランス語学科を受けたんだけど落ちちゃって。文学なんてまったく興味がなかったのに、滑り止めだったフランス文学科に入学しました。

当時はファッション系の専門学校と二択だったんだけど、親には「今しかできない選択肢を選んだら」とアドバイスされて。普通だったら「せっかく合格したんだったら、大学にしなさい!」って強く言われそうなものだけど、しっかり話を聞いてくれていたんだなと思う。

とにかくなんで勉強していたのかっていうと、とにかく秋田を出たかったから。雑誌に載っているような服は売ってないし、映画は一年遅れで公開されるし、「秋田には何もない」って思っていた。

いま思うと、秋田のことを何も知らないくせにね。あとは、その頃はあまり秋田から東京に出る人ってそれほどいなかったから、人と変わったユニークな存在になりたかったんだと思う。みんなが東京に行くのが当たり前だったら、海外に行ってたりするのかな。

とにかくそんなこともあって、スポーツも音楽も何も才能がなかった僕にとっては、勉強が唯一のアイデンティティになってた。

(第2回につづきます)

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