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どこまでが「かばん」か問題

倉谷滋先生の「新版 動物進化形態学」を読んでいる。
元々は個人的な趣味(キリンが大好き)で、その分類について調べていたら行き着いた本。
読んでいる、というのは、まだ読み終わっていないという事だ。
本好きな子どもだった方、「はてしない物語」を覚えてるだろうか。
文字は黒一色だけれど、ボリュームとしてはあの位の本で、そこに難しい言葉で面白い事が無限に書いてある。無限に。ずっと読み終わらなければ書いてある事は無限になる。事実、この本の内容はまだ研究されていて、続きがあるのだ。「はてしない物語」なのだ。

直接キリンについて触れていない部分がなぜ面白いのか。(動物と言っても、この本では骨格とか遺伝子とかヌタウナギとかカメとか、専門家が構造をよくよく見て、長年研究している事について書いている。ヌタウナギとキリンはだいぶ違う。)
形態学が、かばん屋にとっての普遍的な問題にも寄り添うからではないかと思う。

採寸して裁断、縫うまでの作業をしながら何ヵ月も同じ材料を目の前にしていると浮かぶ疑問がある。

どこまでを「かばん」と呼べるだろう。

ポーチはどうか?
持ち手がない?ではギターストラップは?
やっぱり包む部分がないと?では風呂敷は?
財布はどうだろう。

立体にするための工夫をし、縫い目と材料の関係を整え、持ち主の手の大きさに合わせてサイズ調整をする。
リュックでも、トートバッグでも、財布でもそうなのだ。
世界にひとつだから使いやすい訳でもない。
手縫いだから壊れない訳でもない。
大量に生産されていても、どの国で誰が作っても、大事なものを運ぶため、材料に向き合って工夫した数だけあるのだ。かばん。

分類して名前を付け、さらに好みのものを選ぶのは、持ち主であるお客さまの領分。
かばん屋はせいぜいアドバイスするくらいのものだ。
ここが動物とかばんの大きく違うところ。
キリンは誰のものでもない。少なくとも、好みの個体を選んで持ち歩けない。

財布のフラップに秘密の言葉を隠して貰う事にした。
かばんを分類するとき線を引くのは持ち主の好みや生活で、それでデザインが決まる。素材も、構造も、デザインの全部。
持ち主の好み、持ち主の想い、この部分はそうそう変わらない。子や孫に受け継がれる事すらある。
もう一度書く。リュックでも、トートバッグでも、ポーチでもギターストラップでも風呂敷でも、もちろん財布でもそうなのだ。だから持ち主の想いを大事に包むこれは、かばんだ。

外側に大きく見えているのも格好良い場合はあるだろう。ファッションは主張でもあると思う。
だけど、好みや想いの部分。これは本人だけが分かっていれば良いのではないか。
鏡には映らなくて良いのではないか。

おかげさまで、かばん屋を始めて10年経ちました。
この10年で、世界中の色々な方に、色々な事を教えていただきました。最初は Word press で頑張って作っていたウェブサイトも何度かのリニューアルを経て格好良くして貰い、ときどき新聞なんかに紹介していただいたら SNSで報告したり、某アニメのおかげで「かばんさん、かばんちゃん」と呼んでいただく事も増え、今は確かにかばん屋です。聞き鞄といいます。これからもよろしくお願いします。

かばんの会は、始めて7年くらいになります。よかったら、お話、お聞かせください。

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