近江八幡のコロッケ

 別になんでもないのだが近江八幡市に住んでいた頃によく行っていたコロッケ屋のことを思い出した。
 私は幼少期の数年と就職してからの一年を近江八幡の街ですごし、このコロッケ屋には何度も足をはこんだ。
 そのコロッケは街のソウルフードで市民はことある事にコロッケを買いに行く。そして私も例に漏れずよく買いに行っていた。幼少期には母親と、大人になってからは住居から遠路はるばる自転車でという感じ、近江八幡での幼少期の思い出はいくつかあるのだがその中にこのコロッケ屋の記憶がある。
 私はこのコロッケをお使いで買いに行ったのだがその近くの駅の辺りで迷ってしまった。当時物心ついたばかりで頭もパッパラパーで道分からず、人に聞くという発想もなく途方に暮れていた所を数時間後に祖母に見つけてもらったという記憶。なんでもないけれど感情が揺れ動いて動揺していたために記憶に残っていると考えられる。ちなみに別の記憶もある。
 このコロッケ屋は注文が入ったらガラスケースの中のパン粉がかかった揚げられていないコロッケをいちから揚げるシステムで5〜6分、長くて10分ぐらいかかる。母親と行ったコロッケ屋で何もしない10分は子供にはかなり長く、何もやることがなくてコロッケとは別のケースの中の牛肉を端から端まで見ていた。それが終わるとソーセージのケースを今度は見始める、「これ買ってくれないかな、買ってくれないよな、あれより全然いいのに」とか当時は思っていた。今はソーセージやりそのお店のコロッケが好きだが子供というのは味覚音痴で馬鹿舌だ。まぁつまり味の善し悪しを見極められる程の色々な食事をしていないわけでほかの店のコロッケとの違いも知らないのに美味しいコロッケだと思うことは出来なかったのだ。それにパッケージに高級感があった。子供とはいえ高級なものとそうでないもののパッケージの違いは分かっていた。高級なもので自分の味わったことのない感覚がそこにはあるのだろうときっと思っていた魅力的に感じていたのだろう。さてその後、揚げ終わったコロッケやその他もろもろを受け取って私たちは帰った。帰る頃には夕食の事で頭いっぱいできっともう高級感のあるパッケージの事は隅にもなかったろうと思う。
 さて大人になってからは何か嫌なことがあったりした時に元気を出すために食べていた。自転車で行き帰り二時間、同じ市内とはいえ決して近いとはいえない距離があったがそれでも足繁く通った。もちろんその辺だけ近江八幡市というのは栄えているから買い物をしたいならその辺に行かないといけなかったというのもあるが小さい頃の思い出の味で甘く庶民的でありながら他のどこにもないその味は辛かった暮らしをリセットしてくれた。毎日働きたくなかったあの時代を、毎日怒られていた自分を働く前のまっさらな自分に戻してくれた。
 近頃は近江八幡市から遠くなってしまって馴染みの店も変わった。それでもたまにこのお店に行っては昔から好きだったコロッケを買い食いしている。歳をとって心も身体も変わっていっても思い出の味だけは変わらないのだろう。これまでもこれからも。
 

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