見出し画像

妄想小説 ユンギ編

取引先で珍しく仕事が早く終わり、思わずできた自由時間。
せっかくならと、知らない街をぶらぶら歩いた。
すると、時代に取り残されたようなアナログレコード店が。
心の中の奥深い部分がチクっとするのを感じながら、
「今はサブスクだけど、こういうのもいい」と、自分をごまかした。

しかし、ドアを開けた瞬間、少し埃っぽい匂いと
LPジャケットが並ぶ様子に、昔の記憶がよみがえる。
いや、むしろ、彼を思い出したくて、ここに入ったのだ。

透き通るような白い肌に、少しだけ猫背の後ろ姿。
口数は少ないけれど、なにもかも見通しそうな雄弁な瞳。

画像1


彼は、私がバイトしていたレコード店の客だった。
ラッパーだと店長から聞いたときは驚いた。
物静かで、クラシック、フォーク、インストと雑多なレコードを吟味している様子からは想像できなかったからだ。

店長とは古い付き合いらしく、私も音楽の話題で少しずつ言葉を交わした。
バスケ部だったという共通の思い出で盛り上がり、
歯茎をみせて大笑いする姿に、私はあっという間に恋をした。

だけど、それだけ。
多分年上で、背が高くて、うまく愛想ができない私は、彼から選ばれることはないから。

もてるけれど、女っ気がなく、ぶっきらぼうな彼にとって
たまに会話する「知り合い以上友達未満」の関係は、ちょうどよい。
狭い街のなか、偶然会って、「こんにちは」、「こんにちは」と会釈する。
私を通行人ではなく、「顔の分かる知り合い」と思ってくれているだけで十分だ。

そんな時、一番私があわれな姿のときに、彼に偶然会ったのだ。

起きた事件は短く割愛しよう。
婚活を勧められ、友人の友人の紹介で出会った男は最初から馴れ馴れしく、単にやれるだけが目的と知り、私はあわててお店を飛び出した。
悔しくて、みじめで、情けなくて、私は、どうしていいか分からなかった。

店を出て、とにかく遠ざかろうと角を曲がったところで、彼と出くわした。

画像2

珍しく驚いたような顔をし、少し無言のあと「寒そうだよ」とつぶやいた。慌てたあまり、上着を忘れていたことに気づいた。
彼は自分が着ていたコートをそっと私に着せた。

少し小首をかしげ、片手で首を何度もさすった。
そして、「うち、近いから」と、先の道を歩き始めた。
戸惑う私のほうを見て振り返り、「お腹すかない?」と頭を傾けた。

「はい、こんなのしかないけれど」と、作ってくれたラーメン。
匂いが食欲を刺激し、とても温かで、2人で食べていると涙が出てきた。

その後はバスケのあるある話になったり、昔の風習のうんちくを聞いたり、知らない建築用語の説明をされたり。
思わぬ彼の饒舌に思わず笑ってしまった。「あ、笑ったね」。

そして、彼は大きな夢のために都会へ行くことを知った。
殺風景だと思っていた彼の部屋が、意外にもモノがあふれ、ダンボールだらけだったのはそのせいだ。

もう偶然会うことはない。私たちは約束して会う間柄ではないのだ。

私はこの偶然、たった1回のチャンスに一世一代の懇願をした。

「生きるって大変なの。でもちょっとしたことで生きる糧になるじゃない。
今日のことは、あなたは全部忘れていいから、私だけが憶えているから。
ぎゅーっと抱きしめてほしいの」

沈黙ができる。ああ、なんて大それたことを望んだんだろう。
下を向く。その沈黙が耐えがたく、なにかしゃべろうとした途端、
頬杖をした彼と目が合った。

画像3


そして、そっと大切なものを扱うように、私を抱きしめた。
華奢だと思っていた彼の思いのほか分厚い体つきが伝わる。
そして、涙のあとが残る私のまぶたにそっと唇を重ねた。

「ありがとう」 「いや、俺がそうしたかったからだ」
そして私が思っていた以上に長く、強く、そのままでいてくれた。
「名前を呼んでほしい」という願いさえも、受け入れてくれたのだ。
私の名を知っていてくれた。知らない間に。


2人でいたのは、時間にしてみれば、1時間もないくらいだろう。
彼からコートを借り、終電に間に合うよう、私は帰宅した。

それっきりだ。
彼は街を去り、レコード店は閉店し、半年後、私も都会の会社に就職した。

でも、常に思い出す。彼がよくかぶっていたニット帽。腕を組んで考えこむ姿。冬でもサンダルを履く、彼の足の指。髪の毛を後ろからグシャグシャっとさせるクセ。白いシャツに黒のマスク、伸びた前髪からやっと見える瞳。

画像4


そして、今、あのレコード店に似た場所にいる。
私たちの、いや、私だけの思い出の、今はもう幻のようなもの。

そして、彼の夢はかなった。
3月9日が近づけば、街中に、美しい彼の顔が並ぶだろう。

でも、私には、あの時の彼とうまくつながらない。それでいいのだ。


店を出た途端、スマホが鳴った。
可愛らしい声が届く。「ママ、今日のお土産は何?」。
今日は夫がお迎え担当の日。
かわいらしい懇願に、現実に戻されつつ、笑顔がこぼれた。


ただ、あの日のベージュのダッフルコートは
私のクロゼットの奥にしまったままだ。これからもずっと。

fin

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?