本の中に住んでいる女の子

女の子が泣いている。本屋さんの児童書のコーナーにペタンと座り込んで、水玉模様のスカートを涙でだいなしにしていた。夕闇の迫った空は、いまにも大粒の雨を降らせてきそう。

「いい加減にしなさい」

お母さんらしき女性が、荷物でぱんぱんに膨らんだリュックを背負いながら言う。両手は自然と腰にあてられ、仁王立ちだ。無理もない。だって、二人はもう10分ほども言い争っていたから。

「帰りたくない!」
女の子はヒックヒックと声を詰まらせながら言った。
「だって、まだ口笛吹けないもん」

女の子の膝の上に、一冊の本が開いたまま落ちている。ちらっとだけ、挿絵が見えた。湖に浮かんだ大きな怪獣の背中に男の子が座っている絵だ。そこは明るい月夜で、男の子は目を細めて口笛を吹いているみたいだった。「わたしだって」そう言いたげに、女の子はヒューヒューと鳴らない口笛を吹いてみる。泣きじゃくりながら。

「お化けが出るぞぉ」
お母さんは声を低く落とし、女の子の手をすくい取った。
「連れて行っちゃうぞお」

女の子はさっと手を引っ込めると、ベーっと舌を出した。店中の人が振り返りそうな大声でこう言う。

「平気だもん! わたし、お化けとお友だちになったの。今度、どんぐりパン持って行くねって約束した」

お母さんは声を潜めて、ぼそっとささやく。
「どんぐりパンは捨てました」

かわいそうに。どんぐりパンは無残に打ち捨てられ、女の子はわんわん泣いている。お母さんはため息をつき、女の子の前にしゃがんで頭をなでてやる。

「台風が来てるの。天気予報で言ってた。夕方からどしゃ降りなんだって」

閉店を告げる店内放送が、9つある天井のスピーカーから流れていた。小説の棚も図鑑が並んだ棚もビジネス書も地図も宗教もそれから絵本も、みんな生きてるみたいにひそやかだった。心臓がトクトクと高鳴っているのは、お母さんとその子だけ。

「雨?」と、女の子は窓の外に目をやった。ふーんと喉を鳴らし、母親をじっと見つめる。「平気。雨が降ったら本の中に逃げ込むから。わたしね、本の中に住んでるの」

そう言って、女の子は膝の上の本を取った。母親はしゃがんだまま本のページに目を落とした。真っ黒い文字。それは雨粒のように、白いページの中にぎっしりと詰まっていた。女の子が本を持って揺すれば、いまにも黒い文字が滴り落ちてきそうだった。母親は目を上げ、女の子の涙を手で拭って聞いた。

「この本、好きなの?」

女の子がうなずくと、二人はもう外を歩いていた。信号の下で母親が手のひらを上にして空を仰ぎ、それから一本の折りたたみ傘がカバンから出てくる。雨脚は早く、二人の足元に雨の白いしぶきが光って見えた。でも、もう逃げなくていい。本の中に住みついて、ページの外を睨みつける必要なんてないのだ。

母親の差したオレンジの傘が、女の子と一冊の本を冷たい現実から守っている。

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キムラ ケイ

エッセイ

日々の暮らしの中で見つけた、小さな物語を綴っています。
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コメント2件

ケイさん、“はじめまして”になります。ゆき坊と申します。

素敵な話ですねェー❗この女の子はさらに素敵です❗

せっかく読ませていただいたので、私も今日から本の中で暮らします。決めました。
ゆき坊さん、はじめまして。コメントありがとうございます!読ませてもらって、なんだか元気が出ました。
 本の中で暮らしてる人、僕の回りにもたくさんいる気がします。そういう人は、奥深い魅力があって好きですねえ。ゆき坊さんがますます素敵になるよう、応援してますね!
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