「意識高い系」の傲慢

「意識高い系」という言葉があるが、
私の周りにもそういう人はたくさんいた。
仕事で関わった20代の男の子は、
「コレってどうなってますか?」と確認の電話を入れると
「えーえーえーその件ですね~その件はっと…はあはあ…ッ
すみません、今、階段登りながら話してて。
時間って無限にあるわけじゃないじゃないですか?
僕、分単位で動いてるんで。」
と報告してくる、僕めたくそ忙しいんでタイプの
意識高い系だった。

ヘイヘイ、たった3分立ち止まって電話しただけで、
何があるっていうんだい?
「この件どうなってますか?」
「はい、その件こうなってます!」
で、パンパーンと済ませればいい話なんじゃないの。
っつーか、
そんなに追い詰められてる状況なら、
電話出るなよそもそも!!
出なくてもいい!出てくれなけりゃメール入れとくから!!
すまんな!分単位で動いてるところ!!

話し終えた後はだいたい、
「たいしたことないんだからアクセクするなよ、鬱陶しい」
という、相手を小馬鹿にする自分と、
「でも私の方が至らなくて、彼が正しいのかもしれない」
と、自分の不出来を疑う自分が登場し、
大抵後者のほうが、自分の中で大きくなっていく。

「意識高い系」の人々の
「今やっていることが間違っているわけがない」という
自己肯定のパワーは強い。

対して私は、「自分は間違っていない」という、
確固たる自信を持てない。
自分のそういうところが嫌いだ。


私が小学6年生の頃、
都会から新しくやってきた先生がいた。
この先生がまさに「意識高い系」の先生であり、
田舎で呑気に暮らしていた私なんかには迷惑な存在でしかなかった。

夏の平和学習で「原爆が落ちたことについてどう思うか。」という課題を出し、
「かなしい。」「こわい。」「かわいそう。」と答える生徒に、
「ダメだ!ダメだ!ダメだ!!君達はもう1年生や2年生じゃないんだ!!
どうしてこういうことが起きたのか!!そういうことを議論しなくちゃダメなんだ!!」
と、大声で怒鳴り資料を床にバアーーーーン!と叩きつけた。

そんなもの、小学生がわかったら終戦から70年たった今、
米軍基地とか従軍慰安婦の件で、国家同士はもめていないのだ。

とにかく、その先生の求める生徒像とのギャップに苦しんだ。
なんかすぐキレるし、事あるごとに「田舎もんが」とバカにしてくるし、
机バアーーーーン!とかするし、「やる気がないなら帰れよ!」って
煽ってくるし、嫌いだった。
(今考えればマジソッコー教育委員会なんだけど~。チョベリバ~。)

私は間違っているのか?
何か彼が怒鳴るたびに、自分にそう問いかけた。
幸い担任でなかったので、
「先生は嫌いだから学校に行きたくないでやんす!!」とはならなかったものの、
この先生のことは「若干やばいやつ。」と嫌っていた。

当時、食育の一環で
敷地に内にある畑でサツマイモの栽培をさせられた。
春、クラスみんなで苗を植え、係りになったものが水をやる。
秋には実り、最後は焼き芋にして食べるのだ。
芋を育てる際にも、この先生のクラスは
給食の残飯を集め菌で分解し、肥料として畑に散布する、
ということを独自にやっていた。

クラスの隅に残飯を肥料にする樽的なものが2つほど置かれていて、
禍々しい空気を放っていた。

芋の収穫の時期になった。
独自の肥料を散布していた意識高い先生は、
さぞ大きな芋が出来ていると期待に胸膨らませていたであろう。
ところが、芋の成長は著しくなかった。
それどころか、全く収穫できなかったのである。

後から分かったことなのだが、
芋というのは手をかけすぎると良くないらしい。
給食の残飯を菌で独自分解した肥料は、栄養価が高すぎたのだ。

「あいつバカやん!」
「それちゃ!!(そうだね)
田舎もんとか馬鹿にするけんばい。
変な肥料やらんどけば、ちゃんと芋できたのにさ。」

とりあえず先生を罵ってみたが、芋が食べれないのは生徒である。
きちんと実ったクラスの芋を分ける形で、
収穫の行事は事なきを得た。


あの時、芋を枯らすきっかけを作った張本人の先生は、
なぜか畑の隅で腕組みし、仁王立ちしていた。

意味不明な威圧。
彼は自分の判断を疑うことをしないのか。
私は子供ながらに憤ったし、育たなかった芋の無念を想ったのだった。


意識を高く持つ、ということは間違っていないとおもう。
けれど、手垢をつけていくだけの「意識の高い系」は、無駄だ。

本当は何が必要で大切なのかを、見極めなければならないのに、
見極めた「ふり」をしているから、階段を登りながら電話をしていないと不安だし、
給食の残飯を菌で分解したりする。

間違いがないか立ち止まる謙虚さが、いつだって大切。

結局、芋を枯らした先生は、のちにその指導法が問題となり
保護者からのバッシングをうけ、どこか遠くに飛ばされた。


私は数十年、仁王立ちを忘れてない。
理想、傲慢、虚勢、威圧。
私が永遠に手に入れることのできないだろう、
あの自己肯定感。(芋は枯れてるのに。)

彼にしてみれば、良い肥料で実らなかった芋がバカなのだ。

けれど、芋には芋の事情がある。
どんなに相手が「間違いない」と主張してきても、
芋には残飯は迷惑だから!と訴えれる大人でありたい。

私はいつでも、変わりたい。

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塩部ゆう

かなしいエッセイ

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