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『アンチ』が総じてバカである理由。

さっそく挑発的なタイトルでみなさんのクリックを誘って申し訳ない笑

が、今回は特別にちょっと言いたいこともあって、その内容に一番沿ったタイトルにした。

僕は昨年の5月。脱サラをして、著名ブロガーのイケダハヤトさんという方のもとで、ブログを軸に発信を始めた。

そして1年間今日まで、毎日ツイッターやブログを中心に発信してきた。

もともとは世界一周を家族でするために始めたのだが、そこで、ネットのアンチたちに囲まれる経験をした。ネット上で熱心に自分の批判をする人間と1年間なんだかんだ関わったりしてきたのだ。直接会ったりもした。

▼直接アンチと対談した記事▼

その中で、僕自身が感じたことをここにまとめておこうと思う。アンチが好きというわけではないのだが、興味を持ってわりと接してきたように思うので、その記録という感じだ。

ネット上で発信する限り、必ず一人は現れるんじゃないかというクソリプを飛ばす人たちについて、話していこうと思う。


『アンチ=クソリプマン』?

先に、誤解をまねかないために前提を少しだけ。

ネット上でよく勘違いしている人が多いんだが、アンチの正確な言葉の意味としては「アンチ=クソリプ飛ばしマン」ではない。

アンチはアンチテーゼの略で、正確な意味では要するに反対意見のことや反対意見を持つ人のことを言う。みんなが同じ考えでない以上、誰かのアンチが存在することはいたって普通のことだ。

ただ、実際の認識は少し違う。ネット上に浸透し、『アンチ』という言葉に対してのみんなの認識はクソリプ飛ばしマン、熱心にアンチ活動に勤しんでいる人たちを指している。特定の人が嫌いだからその人に粘着してずっと野次を飛ばしたり、ただ単に批判したいから片っ端から人の悪口を言ったり、誰かの批判記事を書いたり、ユーチューブ動画のバッドボタンを押して回る人たちのことだ。

で、この記事の上で「アンチ」という言葉を使うときはそこを指すことにする。

だから、「反対意見を持つ人をバカだとかいうのは間違ってる」とか「なんでもアンチと決めつけるな!」とかいう的外れな毎度ながらの批判をするのは避けてほしい。


さて、前置きが長くなってもうしわけないが、結局のところ何を今回話したいのかというと、アンチが批判することを楽しんでいる事実について掘り下げて考えてみたことを共有したいと思っている。

この記事を書いた動機については最後にお伝えするが、ネット上で自分を嫌いな人が自分を叩いたりバカにしたりしてくるという経験をしたことを通して、アンチという人間の性質について多少興味を持ち、その中で気付いた持論を展開するというのがこの記事の趣旨だ。

まあ、わりと堅苦しいかもしれないw

興味ある人は読んでくれたら嬉しい。


ネットモラルの低さと人の本質を感じた一年

この一年、発信活動をしてきてネット業界のモラルの低さはかなり感じてきた。要するに僕の周りに限らず、総括してネットで他人を攻撃する人間というのは、自分の顔が相手にわからない、自分が怪我する恐れがない時に現れる。

ここに人の本質というか、汚さを感じた一年だった。

お互いに認識し合っている時に、本人にわかるように個人を攻撃するというのはけっこう稀な例だ。

そして、そういうずるい一面を持ちながら、インフルエンサーという強者(あるいは悪者)に対して弱者が物を申す!という構図であるという認識がアンチの中で一般化していることにも違和感を感じた。

批判している本人にはたいして悪気はなく、正しいことをしている、的を得たことを言っているつもりであること。そんな自分に酔っているということと、その自覚がないこと。そういうのをパソコンや携帯の画面越しにひしひしと感じてきた。

そのことを、できるだけ噛み砕いてこの記事で解説していこうと思う。


特定のアカウントに対して、異常なまでに粘着したり、他人の粗探しに精を出し続ける人たちはそこまで多くはないものの、ネットには一定数存在する。

そしてこういう人種に対して、多くの人たちが、あまりちゃんと言及していない。

だから、炎上ブロガーイケハヤの弟子としては、はっきり記事にまとめておかねばと思った次第だ(半分冗談w)

基本僕は、アンチとブロガー界隈に関しては中立的な意見しか出していないと思うし、あんまり喧嘩売ったりもしないのだけど、今回は少し挑戦的に話を進めていこうと思っている。

では、ちょっと長くなったけど、前置きはここまで。

ここからが本題。


自分の発信の質を棚に上げてるという話

実際のところぼくらブロガー界隈が批判されるのも仕方がない部分もあるとは思っている。

ぶっちゃけ言えば、昨今「ツイッターのフォロワー増やすぜ!!うえいうえい!」みたいな連中は僕を含めてたくさんTwitter界隈でにぎわうようになってきてるし、ぼくは別にそうは思わないが汚い手法で情報商材を売って金を儲けている悪い奴らという見方もあるだろう。

まして、特に実績を出したわけでもない若造が、フォロワーだけ増やしてわかったようなことを吹聴し、それに対して盲目的に賛同する人たちがいると言う図式に不快感を覚えるというのがアンチの大半を占めると思っている。

実際にこれはわかる部分もある。

実力がないものが、目立ってしまう。目立つために頑張って身の丈に合わない発言をするケースも多い。空虚で本末転倒に感じる人も多いのだろう。

また僕らの周りに限らず、世間一般で見ても、有名人やインフルエンサーで法律やモラルに違反する行為がないとは言わない。

だから、ネット上でクソリプや否定意見を飛ばすこと自体は別に自然なことだと思っているし、やめて欲しいわけでもない。

しかし、じゃあそれを全て容認するのかと言うと、またそういうわけでもない。

というか容認はするけど、その批判する意味を今一度考えて欲しいと思っている。そう思わざるを得ないくらい、質の低い批判が多いからだ。


アンチがバカであるシンプルな理由

僕は1年間発信活動をしてきて、それなりにアンチと関わってきて至った1つの結論としては

総じて『アンチ活動』やってる人が"バカ"だな

と思ったことだw

ネット上で熱心に人に嫌味言ったりアンチ活動してる人は、自分がどういう心理状態で、その行動自体が何を生んでいるのかを客観的に理解していない。

単発で批判したり、意見に対して反対意見を言う分には全然いい。例えば誰かが「学校なんていらない!」と発言したとしても、その人が言及するのとは別のあらゆる観点から必要である要素は出てくる。だから反対意見はあってしかるべき。

ただ、実際にネット上の批判を見ていると「僕には反対意見がある」という主張をしたいからというよりも、他人の揚げ足とって優越感に浸ったり、批判や人格否定をすることに懸命になってる人が本当に多いと感じている。(ここに関して別に懸命になってないよ?みたいな否定もあるけど、その自覚がないことも違和感しかない)

自分は安全圏にいて見えないところから人に石を投げることが楽しい。相手がそれを見て苦しむ姿を見るのが楽しい。そして自分自身が危害を加えずとも、その叩かれている人の不幸を見て一種の快感を覚えて楽しい。そういった場面がネット上で見え隠れする。

そしてさらにたちが悪いのは、彼らは自分の行為を正義、もしくは的を得ていると思って活動してるということ。要はその行為自体が自分が快感を得るためにやっているという自覚がないと言うことだ。

炎上にガソリンまいていく人はほんの一部なんだけど、みんなが叩いているところで巻き込まれたくないから誰も口出さない。よってネット上では人を批判する意見が大部分を占めてるように映る。叩いた側はそれを見て「みんなが俺に賛同している!俺は正義だ!」と踏ん反り返ってまた批判を繰り返す。

その状況を見た人はネットで知らない人の悪口があると多かれ少なかれそれを鵜呑みにし、悪い奴がいるんだと認識して、あわよくば同じように叩く。要するにいじめの心理と丸被りなんだ。そこにはどこまでいってもただ叩かれる側と、叩いてる何人かが優越感に浸っていると言う構図しかない。その事自体に気づけないこと、人を傷つけてしか快感を覚えられない自分の性質に自分から向き合う勇気もないからアンチ活動に専念してる人は"バカ"なんだと思っている。そう言う人間はなんの意義もない悲しいことに躍起になってる自分を鏡の前に立って見つめるという能力がない。

ってのが、アンチと色々関わってきたこの1年で感じたことだ。

これは僕が批判される側だから、自分の発信の質を棚に上げて「批判することは悪だ!」みたいに言っているように見えるかもしれないけどそうじゃない。

別に感情に任せて書いているつもりもない。

いたって客観的に見て、批判活動に専念する人たちの心理というのを自分なりに分析してみた結果ということだ。

というわけで、今言ったことがよくわからんと思うし、ちょっと偏ってると思う人も多いと思うので、ここをさらに掘り下げていく。僕が1年間で思ったことをあらかたこのnoteに書いておこうと思うので、多少長くなるがよかったら最後まで読んで欲しい。


批判がネット上にはびこる理由

ここから、なぜネットに特定人物への批判がこれだけはびこっているのか、その心理を考えてみたいと思う。

僕が思うに、この理由には大きく3つの要因があると思っている。

1.批判が的確に見える事実
2.他人の批判を鵜呑みにする危うさ
3.他人の不幸は蜜の味という人間の汚さ

これだと思っている。順番に解説する。


1.批判が『的確』に見える事実

人が人を批判するというのは、往往にして派生しやすい。

炎上というのはまさにこれによって起きる。

その炎上が起きたり、アンチがはびこる理由として、批判が的確に見えるという事実がある。

前提としてもちろん的確なものがないとは言わない。ただ、完全に論点がずれているようなものですらも、考えようによっては「確かに」を思わせる効力を持っているのだ。

例えば以前、僕がSNSコンサルをします!と言うツイートをしたんだが、これに対して「そんな誰でもできるようなことで金取るとかクソ!」みたいな発言を目にしたことがあった。多分これは、僕が1年前に見たとしても「確かに」と思う部分もあったと思う。実際によくそんなことで金を取れるなという風に思う人もいるだろうし、なんなら相互フォローでなんぼでもフォロワーなんて増やせるわ!という反論をしていた人もいた。

しかし、SNSでフォロワーを増やすと言っても買ったり相互フォローで増やすのと、売りたい商品や広めたいものが先にあって、それを求めている層のフォロワーを獲得していくのとではプロセスが全然違ってくる。そしてコンサル自体はそれを、先に実践している者から教えてもらって時間短縮しようと言うニーズを満たすサービスであるから、別にフォロワー増やしたいと思ってもないし自分で商品を持っていない人からは全くいらないサービスであると言うだけだ。

説明すれば、単純にそれだけなのだけど、批判意見だけを見ると「もっともらしいことだ」という風に思わせる魔法のようなものがある。

もっと極端な例を出すと、僕がスポンサーに高級焼肉を奢ってもらったと言うツイートをしたことがあるのだが、それに対して「自分はサラリーマンだけどもっと高級なフレンチに行けてる。そもそもその焼肉屋そんなに高級じゃないと思うけど。それがフリーランスの現実かな」みたいなアホな意見がきてたが、これに対しても「なるほど。」みたいな賛同している人がいたくらいだ。まったくもって頭の悪いマウンティングとしか思えないが、こんなものにも批判意見の効力が発揮されている。

これは後出しジャンケンと同じだと思う。

人の揚げ足をとることほど簡単なことはない。これは人間社会のいろんな場所で見られる。

クラスの学級委員長に対する批判、芸能人に対するマスコミの批判、与党に対する野党の批判、テレビに出る芸人に対する「〇〇がおもんない!」などなど。

批判をする側は無責任でかつ、相手のダメなところを探して指摘するだけなのだからさぞ簡単な上に気持ちがよく、「ダメな部分を指摘できる俺は賢い」と思いながら優越感に浸れることだろう。

そしてそれをとりまくバカな人たちも批判をする側の指摘が「するどい!」とか思っている。正直わらえる。

批判がどれだけ簡単かつ無責任で、誰でもできることかを理解している人が少なすぎる故に生じる現象だと思う。

だから誰かに対する批判は反応を得やすい。

もちろん全部が全部こうなってるとは言い難いし、実際に鋭い批判もあるだろう。しかし、はっきり言って全く見当違いであったり、そもそも論点がすり替わっていても、言ってることは批判する側の視点からすればもっともらしく見えるし、それに賛同する人が多く、その賛同で自分は賢い!と批判意見に拍車をかける人も多いというのが批判グループを見ていた正直な感想だ。


2.批判が優位に見える理由。他人の陰口を鵜呑みにする危うさ

そもそもなぜネットでは批判する側が有利に立つ(ように見える)のかというところでは、これは色々要因があると思うが、個人的にはひとへに一方的だからだと思う。

例えばこれが直接対談で一対一ならどうかというと、そうもいかないのだろう。彼らの一方的な解釈や批判について批判される側もその場で即座に反論できる。第三者からは両方の視点が入ってくるので、賛同する人とそうでない人に別れるだろう。

しかし、仮にその場に批判される側がいない、もしくは反論するタイミングがないとなると、批判する側の独壇場となる。聴衆は批判側の視点のみを目にし耳にするため、必然的に批判される側が不利になる。ツイッターでのやり取りもまさにこれ。そして陰口が悪質なのはこのためだ。

日常でよく目にするこれと似た現象で多いのが「夫や妻、友人の悪口」。

例えば、あなたの知り合いAさんがいたとする。その人が「この間さ、Bとご飯行った時に遅刻した挙句、謝りもしないで、ご飯奢ってくれるかと思ったら財布忘れたとか言いやがってさ。俺が奢る羽目になったんだよ!アイツ最低だわ。もう付き合わない!」と言ってきた場合、あなたは「Bはなんてひどいやつなんだ」と思うかもしれない。Bのことをよく知らなければなおさらだ。

ただ、ここで忘れてはいけないのが、これはあくまでAの視点での事実であって、Bや第三者からの事実ではないということ。

もしかしたらBはその時、個人的なトラブルに巻き込まれていたのかもしれない。謝らなかったのはよくないかもしれないが、精神的に余裕がなかっただけで、そこまで性格が悪いと断定するのは早いかもしれない。また、Aがサイコパスで、本当は謝っていたのに、Bに腹が立っていたため話を少し脚色していたのかもしれない。

こう言った場面は日常茶飯事だ。

夫婦喧嘩などでは特にそれは顕著だ。お互い「自分の方がちゃんとしてる。相手は全然家事手伝ってくれない!育児に関心がない!自分をわかってくれない!」などだ。

うちの旦那本当にひどい!めっちゃ偉そうだし家事手伝わないし!と聞かされていた旦那さんとご飯に行った時に「土日は家事育児僕がやってますよ」ということを聞いたこともある。平日は仕事をし、土日で家事と育児を手伝っているなら立派なものだと思うが、奥さんにはそう映っていない、ということだ。もちろんこれは両方の解釈なので事実はわからない。

ここで重要なのは、その事実をそのまま鵜呑みにしないということだ。

で、リアルであればまだ正当な判断をできる人がいるのだが、ことネットではそれが文章になり、批判されている側を全くもって知らないため、余計にこの誤解度は高まる。

この見方に納得の出来ない人がいるかもしれないが、僕の意見としてはこの構造が批判する側を調子付かせ、第三者には批判される側を悪く解釈するということが起きる原因だと思っている。特に自分でしっかりとした判断基準を持っていない人は他人の陰口を鵜呑みにしやすいということだ。

もちろん批判的意見が的を得ていて、例えば多くの人を騙そうとしているインフルエンサー(イケハヤがそうだと言われている)が仮にいたとすれば、それを批判するのはいいのかもしれない。しかし、その批判意見が正しいかどうかの尺度を賛同者の多さで判断するのはいかがなものかと思う。

情報には事実と意見がある。ネットユーザーはこれらを混同しやすいため様々な誤解が生じる。「誰々が〇〇と言っていた」という話も、一見事実のように聞こえはするかもしれないが、伝聞者のフィルターがかかっている。相手の言葉を要約したり、分かりやすく言葉を捕捉したりした段階で、無意識にでも必ず伝聞者の主観が入る。

さも本当であるかのような臨場感を持って伝えられた内容であったとしても、それが100%事実であることは少ない。

これを批判する側もそれを聴く側も、そしてされる側も念頭においておかなければならない。

先日、分かりやすい事例があった。この記事だ。

競泳の池江璃花子選手が白血病と診断された時に、桜田五輪相がそれに対して「ガッカリした」と発言した。それに対してマスコミが「不適切な発言だ!」と指摘をしたのだ。確かにこの発言だけを切り取って見てみると、いかにも桜田五輪相の配慮不足に映る。

しかし、そのコメント内容の全文を公表されている日テレNEWS24の記事があった。以下

ここのコメントを見れば、桜田五輪相に悪気があったわけではないことは容易に受け取れる。たしかに嘘はついていないのだが、このコメントから「がっかりしている」というコメントだけをすっぱ抜いて「不適切な発言だ!」としてる人の方が不適切なのはいうまでもない。

ここには、人が他人を批判するのが楽しくて仕方がない。という聴衆の心理が根底にある。

それを理解してるマスコミは、「他人を批判する記事」の方が人気が出ることを知っているのでそういう書き方をする。そしてそれを鵜呑みにする人たちがはやし立てているという構図。

また、これはネット上の批判でも顕著だ。特定の人物のコンテンツに対して、引用文を用いてさも客観的に批判しているツイートやブログがある。最初それを見た時、僕も「なんてコンテンツだ。この人の言う通りだ」と思ったものの、本当にそうかなと思ってその人自身のコンテンツを見た時、「ちょっと解釈ずれてないか?」と思うことはよくある。

また、もっと言えば、最初に批判側の文章を読んでから批判される側の文章を見ると、頭の中にフィルターが無意識のうちに設定されている場合も多い。無意識の内に批判モードになっているのだ。

もちろんこれは逆の場合も同じことが言える。

こう言った先入観や自分の価値観による思い込みを意識しだすときりがないかもしれないが、要するにこういう思い込みや一方の批判にはいかにそれが客観的に見えても主観が入っていることを前提に情報を摂取する必要がある受取手側の問題だと思っている。そしてこれは批判を受ける側を味わって、この現象がこちらの主張や本質と相手の解釈を大きくずらす1つの原因であることは強く感じている。

※補足するとここに「相手のことを知らない」という要素も深く関わっている。知っている人がした行いと、知らない人がした行いが同じだったとしても受け取り手の抱く印象はまるで変わる時がある。この「知らない」が悪いイメージに拍車をかけるというのは、歴史をみても明らかだと思う。


他人の不幸は蜜の味という欲求が批判意見をさらに駆り立てる

ネット上の批判に関してさらに掘り下げると、アンチとかに限らずほぼ全ての人間が持つ"闇"の部分が見えてくる。

なんで芸能人や有名人へのどうでもいい批判が多いのだろう。不倫騒動で大騒ぎする人がいるが、あんなのどうでもいいことだろうとみんな思わないだろうか。人様が不倫しようが他人が介入する余地はないし、完全にプライバシーの侵害だ。ベッキーがかわいそうだ。w

あれはマスコミが悪い!という人もいるが、元を辿ればそれを喜んで見ている消費者のニーズがあることが原因だと思っている。人は総じて他人への批判、他人の失脚していく様を見るのが好きなのだ。心理学の用語でこれをカバートアグレッションと言うらしい。他人の不幸は蜜の味ってやつだ。

これはネットでアンチ活動してる人、テレビの前で芸能人の浮気に対して意気揚々とくだをまいている人、職場や学校で仲間と同僚やクラスメイトの悪口を言ってる場面など、日常生活の様々な場面で見られる。

ここで、なぜ僕がアンチ活動してる人がバカだと言ったかに戻りたい。

こういった一種のサイコパス的な感情は誰にでもあるはずだ。例えば男なら友人がめっちゃ綺麗な女性とセックスしたという話より、ヤれずに振られた話の方が聞いていて楽しいだろう。女性なら大してモテてもなかった同級生が大学でめっちゃ綺麗になってミスコンで優勝した話より、イケメンに告って振られた話の方が盛り上がるという人は少なくないはずだ。

人間というのは多かれ少なかれ、汚い感情を持ってる。(持ってない人もたまにいるけど)

ただ、それを自覚して行動を抑えることができるのもまた人の賢さだと思っている。自分のそういう感情に目を向け、それがいかにレベルの低いことかを客観的に見つめることが、自分や自分の周りの人間の幸福度を上げていく行為だと思う。それができずに、「批判してる俺かっこいい」と思ってる人はやっぱりバカとしか言えないし、批判に対して群がるという人間の性質があるにも関わらず、誰かの批判をしてそれに賛同者がたくさん集まった時に「俺の意見は正しかった!」と考え民意の暴力をフル行使するというのは、申し訳ないが頭が悪いとしか思えない。まあ本人は自覚がないからこれを見ても該当者は「俺は違う。かっこいいとか思ってない。わかった風にいうな」とか思ってるだろうけど。そう思ってるあなたが多分一番それに近い。

ネット上での批判では、何かを発信する対象に「批判する人間」と「その批判を鵜呑みにする人間」の両方がいる。ここには今言ったような「もっともらしく見える批判」が大きく作用している。

これに気づいている賢い人間はこういったやりとりに距離を置くようになるが、バカな人や自分の人生に満足していない人はここに夢中になる。この「他人の揚げ足取りは実に簡単であること」を理解できない上に、満足がいかない自分の人生を、他人を批判することで「こいつの方が惨めだ」と思ってかりそめの優越感に浸っているというのが、アンチ活動に専念しているクソリプマンの本質であると思っている。


こんなこと言われていたよ。というサイコパスもいる

またちょっと違ったタイプだが、この批判に乗じて一番美味しいポジションを取ろうとしてくる人もいる。

僕に対してバカなアンチが批判をしていた。ということをわざわざ僕に直接や、DMで報告してくるような人がいる。

この人たちはタチが悪く、普通のアンチコメントをしている人よりさらに悪気がない。

自分は親切に教えてあげているつもりなのだ。そしてそれに対して自分がどういう行動をとったかまで親切に教えてくれる人もいる。「キックについて〇〇と言っていたやつがいたよ。僕は△△と言ってやったよ!」と言ってくるのだ。

なぜ彼らがこういう行動をしてしまうかというのにも2つの理由がある。

1つは前述した『カバートアグレッション』。親切な友人のふりをして、相手がショックを受けるような様子、あるいはショックを受けても隠そうとする様子を見て一種の快感を覚える。さらにその場を利用して、自分は仲間であることを強調してくる。「俺はこういう風に言ってやったよ」とか「ほんと、彼らってバカだよね!」というふうに。バカはお前だ。

こうすることで、相手が苦しむ姿を見て快感を得られるし、自分を仲間だと思ってもらえる(と考えている)ので彼らにとっては一石二鳥なのだ。

この構図も現実社会でも頻繁におきていることだと思う。思えば小学生の時からこういう奴はいた。当時はまだ「教えてくれてありがとう」だったが、成長するにつれ、そういうやつがずるいというより、単なるアホであることに気づいていく。大学時代の親友にもやられたことがあった。本当に悪気はないんだろうと思うが、正直哀れでしかなかった。本人は親切心丸出しだからだ。

こういう人はアンチ以上に軽蔑の対象になるのだが、まあ悪気はないし単にバカだから仕方がないと思っている。


以上が、僕が1年間アンチというものと関わってきて、アンチに対して抱いた印象だ。

もちろん視点は偏っているだろうけど、これも一種の真実であると思う。

あとはここから、ネット上で言われている中でも多いアンチの意見について僕なりの持論を少しお伝えして終わりたいと思う。


インフルエンサーが強者であると言う勘違い

みんなが言わないからあえてこの場でしっかりと提言しておくが、匿名アカウントがネットで特定の人をディスるのはいじめの原理とそんなに変わりないと言うことだ。これは断言する。

そしてこういうことを言うといろんな想定しうる反論も予想できるが、いちいちそれに僕の持論を出していると話が進まなくなるので、一部にしよと思う。例えば「インフルエンサーは強者だからいじめじゃないでしょ」とか「言われるのが嫌なら発信するなよ」とかだ。あえて反論しておくと、インフルエンサーはまず強者じゃない。

目立っている人間は、羨望の眼差しで見られたり、優位に見えても実のところ数の利では圧倒的に弱者だからだ。それは総理大臣だって同じ。芸能人もわかりやすい。

アンチの人たちはある意味賢い。いかに自分の意見が正しいか、言われている立場の人間が愚かか。そして自分がけっして叩かれる立場にまわらないように仕向ける術を持っている。安全圏から他人を叩くと言うことにおいては非常に頭がよくまわる。

そこでネットの仕組みをうまく利用して、「これが民意だ!」と言わんばかりに弱者である発信者を批判してくる。実際のところそれをいちいち気にしてる人や、批判を怖がっている人はそこまで多くはないのだけど、だからといって強者というわけではない。

「民意と言う名の暴力」「数の暴力」と表現する場面があったりするが、大勢で大義名分を持って一人を叩くというのは、たとえ叩かれる側がなにか大きなミスがあったとしても、それが極めて危険性が高いということは歴史からも何度も学んできたことではないかと思う。つまりそういうものに加担する時はよく考えた方がいい。


アンチをブロックするのは視野狭窄か否か

ここに関して、僕も1年間をへて色々考えてみた。みんなブロックしたら視野が狭くなるんじゃないだろうか。批判意見にも耳を傾けるべきなんじゃないだろうか。アンチは全員ブロック!というイケダハヤトのスタンスや、その他ブロガー、インフルエンサーたちのスタンスにも疑問を持つべきなんじゃないか。そう思って積極的に絡んできた。

もちろん今後も反対意見を言われたからといって全部ブロックするつもりもない。個人的には、アンチだから面白い要素がないということはないし、アンチじゃない人で面白くない人もいる。まあこんなのはいうまでもないことだけど。

しかし、人が傷つくようなこと言ってそれで楽しんでるなと思うような人はブロックしていく。なぜなら僕がこれから歩む人生は楽しくしたいから、それには彼らが邪魔だから。

僕はアンチ活動をする人々と、それを静観して実は内心ちょっとテンションが上がったりしている人に「人の本質」を感じている。もっと遡れば、人間は"変わったもの"を排除する本能がある。これは生物の本能としてはごく自然で、一種の防衛本能らしい。なのでいじめやネットでひたすら叩く活動も必然的に起きることだし、これを止めることなんてできないと僕は個人的に思っている。

ただ、ちょっぴり大げさなことを言うと、人として尊厳のある生き方を選びたいと思うなら、そう言う行動に加担したりすべきではないとも個人的には思っている。

間違っていることを間違っている!ということは大事なことでも、その言論の自由を盾に、人を傷つけマウンティングを取ろうとするような人とは距離を置きたくなるのは自然なことだ。

反論したい、議論したいと言う気持ちは理解できる。

じゃあ、それならば攻撃的にマウント取らずに相手が不快な思いしないように配慮すればいいわだ。人として当たり前のコミュニケーション能力だと思う。

そこが欠如してるくせに「アンチはブロックとかするな!」とか「視野狭窄だ!」とか言ってる人はマジで頭が悪いと思っている。


アンチがよく言う「謝れ!」「説明しろ」問題

以前僕が失敗したネスレの規約違反の件について「稼ぎたいと言う気持ちが先行しすぎちゃってる」と言う意見をもらったことがあって、まさにそれはあるなと思った。※ネスレの件知らない人はごめん

もちろん規約に書いていることを意図的に違反したわけではなかったし、規約にそもそもその時は書かれていなかったことなのだが冷静に考えたらわかるようなことでどうしようもないミスをした。だから迷惑をかけたネスレ側にも一応メールではあるが謝罪の意を示した。

が、ネット上でアンチが「ちゃんと謝罪しろ」みたいなことを言ってくるとか、ちゃんと説明しろとか言ってくるのは正直ちょっと意味不明。

べつに彼らには一ミリも迷惑はかけていない。って言うと開き直るな!とかいって怒るんだろうけど、事実だから仕方がない笑

これは日本人の特性なのか分からないがなんでみんなすぐ「謝れ!」と言うのか。はなはだ見当がつかない。

芸能人の不倫騒動とかにも謝れ!とかも意味不明だ。


アンチに対して攻撃的に反論するのも一緒やんけ!と言う意見について

こう言う風にアンチの姿勢に対して反論というか、反発の姿勢を見せた時に、必ず飛んでくる意見の1つに「自分も否定してるじゃんか。鏡見た方がいいですよw」とかいう批判。

いつも反論しないけど、こういうあげ足取りがあとをたたないのはそれだけ批判の本質を理解していない人が多いからだと思う。

特定の人物に対しての批判と大衆への批判では全く意味が異なる。

特定の者に対して多人数で石を投げたりするのと、社会に対して一人がクレイジーな発言をするのとの違いだ。


批判が世の中のバランスを保っている

誤解する人が本当に多いので最後にもう一回だけいう。

批判はするなというわけじゃない。

僕が言っていることは、批判の本質がこうなんじゃないか?ということを投げかけているに過ぎない。

誰かがトップに立ち、それに対して批判することをやめてしまえば独裁社会になる。だから批判という名のブレーキが必要なのはいうまでもない。

だけど、不必要な言動で他人を傷つけてしまう批判はいらないし、そうやって行動してしまう人の多さや愚かさを自分自身含め、理解していくことが大事なんじゃないかなとは思っている。

別にこれをぼくが偉そうにいうことに価値なんてないんだけど、それでも言いたいなあと思うくらい、ネットでの誹謗中傷のレベルの低さは度を超えているように思う。


発信を続ける人へ

ここでネット上で発信を頑張っているブロガーやユーチューバー、その他多くの発信者に伝えておきたい。

僕みたいな雑魚が偉そうに言えることなんてそんなないんだけど。

ネットで人を叩いたり誹謗中傷する文化はおそらくなくならない。仮に法律ができたり制度が新たになったりしたとしても、形を変えて必ず残ると僕は思ってる。いじめがなくならないと同じで、人間の本質はそこを抜け出ることはないから。

ただ、そこに負けない自分を作ることはできると思う。

安全圏から石を投げつけて相手がちょっとでも傷ついたらニヤニヤするような人間は、残念ながらこの世の中には腐る程いる。

そしてそういう心理は自覚がないだけで、いろんな人の中に眠ってる。僕の中にも多少はあるだろう。

だからあなたが誰かから注目されるような何かの舞台に立てば、必ず人の悪意は飛んでくる。

それでもそんな悪意の中にも、周りに悪意しかないんじゃないかと思う時でも、必ず自分のことを応援したり、頑張って欲しいと思ってくれている人は多かれ少なかれ、必ずいる。そう言う人たちにぜひ目を向ける訓練をして欲しい。

自分のことを思ってくれている人は、必ずいて、そう言う人がかならずいい意見も悪い意見も言ってくれる。あなたのためを思って。

だから批判意見を全部はねのけたところで、客観的視点がなくなるとか思う必要もない。自分がいいと思ったことをやればいい。

嫌われる事を恐れる必要もない。

これは最近改めて気づいたことなんだが、嫌われる事を恐れたり気にしたりする人は総じてあまり伸びない。人から何か言われる事を意識してビクビクしてると発信する内容も尖らないし、そもそも周りの意見に消耗する。

また、周りの意見を気にしてることは、サイコパスなアンチは即座に気づかれる。なぜなら彼らは人の傷つく瞬間が大好物だから。血を嗅ぎつけたサメのように、周りの目を気にしている人間を嗅ぎ分け攻撃してくる。だから気にしないことが一番だ。

アンチはバカだと言った。が!

これは多くの人の心に共通する部分だと思う。別に人の悪口を言ったり否定したりすることが悪いこととは言わない。それはみんなそれぞれ自分の正義感に従えばいいし、誰が正しいとか間違ってるとかの話ではない。

ただ、人に石を投げつけることが快感になるやつは昔から本当に多い。アンチや発信者に限らず、そういう人間に成り下がってないかを今一度考えてみてほしいなとは思う。


このnoteの内容への反対意見は特にアンチ活動をしていると自覚のある人たちから多分飛び交うと思う。そりゃ彼らを批判する内容だから当然だ。


ここに対して彼らがいうことも、僕としては客観的に自分の意見も精査して見てみたいので、ちゃんと見るようにはしようと思ってる。

飽きたらやめるけどw


最後に

この記事を書くきっかけになったのは、一人のブロガーさんからアンチへの対応について相談をもらったことだった。

その人はネット上でなぜここまで批判されるのかに混乱して、自分の立ち位置に迷っていると言っていた。

その人への批判コメントを見せてもらった時、その人が傷ついていることを認識してさらにそれに対して追い討ちをかけることを楽しんでいる人の感情が、画面上から伝わってきた。そして自分の中にも一種の似たような感情が過去にあったことも思い出した。

それを整理しておきたいなと思ったのが、今回記事を書くきっかけになっている。

前述した通り、批判があることは世の中のバランスを保てている証拠であると思っている。物事で何が正しいか、間違っているか、完璧な正解なんてない。円安がいいのか円高がいいのか論じ合っても意味がないように、会社員がいいのかフリーランスがいいのか、両論があってはじめて健全な社会が成り立つと思っている。

だから、批判に対して反撃したいからというよりも、ネット社会の構図を僕なりに客観視して見えた世界を共有したく、書くことを決めたという感じだ。

この見方は一方的であるとは思う。今回の文章は俯瞰的にアンチ活動をする人と叩かれているブロガー界隈を見て、そこに対して論じてもいいかなとは思ったのだけど、いかんせんどっちつかずの文章は面白くないし、どっちみち僕がブロガー界隈なので、視点は偏るかなと思い、ならばいっそのこと僕から見えているネット世界の実態に対してそのまま言及した方が面白いかなと思った。

まあ、ごちゃごちゃややこしいことを言ったけど、平たく言えば自己満記事笑

この記事を1つの発信者の意見として、参考にしてもらったら嬉しい。

んで、合わせてこの動画もよかったら見て欲しい。

アンチ活動をしてしまう人の本質を付いている動画でDaigoさんの動画。僕がこの記事を書く時に非常に参考にさせていただいた動画だ。

ついでに今回のことに関連する動画でこちらもおすすめ!Daigoさん本当に面白い!


ということで、最後まで読んでいただきありがとうございました!

またねん!

サポートいただいた分は僕の食費に消えていきます。施しをくださる方には一生ついて行きます。