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過去と今(2011年編)

大昔にアメブロを書いていた。
アカウントをどうしても思い出せなくてログインもできず、今はアカウントを作り直して見る専になっているんだけど、そこでたまたま当時相互フォローをしていた方をお見かけした。懐かしかった。

彼女は今も私の当時のブログをフォローしてくださっていた。律儀で優しい。そういう方だった。たまにやりとりするメッセージやコメントから、お会いしたことはなくとも、その魅力ある人間性を感じていた。


そんなわけで、久しぶりに当時の自分のブログを読んだ。自分で書いておきながら、不思議な愛おしさのようなものが湧いてきた。

私はもう、自分を恥じることも、否定することも、卑下もしない。そんなことはやめた。それは過去の自分も含めてだ。そう決めたら、過去への気持ちも変わる。懸命に生きてきた自分に、正面切って愛してると言える日はまだ先かもしれないけれど、自分を好きだと言えない自分ごと好きでいる、と言えることができたから。


私は昨日から職場に行きました。

床中に散乱した書類、カタログ、そして見事に倒れた棚という棚を元に戻す作業、決算処理などをして帰りました。

仕事をしなければ会社がまわらず、給料がでません。生きていけません。

そしてなにより働ける者が働かなければ、愛すべき仙台、宮城、東北に未来がない。

だから、振り返る前にやることやります。
そして愛すべき地元にまた元気を取り戻したい。

2011年3月17日
引用元:俺


震災から6日後の記事。
ひよってる場合じゃねぇ生きるんだよ。と思いながら1日また1日と生きていたあの頃。

で、この半年後にぶっ倒れた。根本原因はストレス。

問診と検査を受けたあとドクターに「辛かっただろうと思う。今までよくがんばりました」と言葉をかけてもらった。それまであちこち病院を回ってもわからなかった体調不良の原因がようやくわかった安堵感とドクターからの優しい言葉でなにもかもが一気に緩むのを感じた。診察室でどうにかこらえていた涙を車の中で開放したことを思い出した。


私は迷惑をかけたくないa.k.a 他人から悪く思われたくない。そんな一心で無理をすることがある。それを思い知った出来事があった。先日体調を崩して、それをおして仕事に行ったのだ。

「昨日さ、具合悪くて一睡もできなかったよ」ってふざけながら話した。同僚たちはみな「休め」と言ってくれたけど、私にはその日大事な仕事があったから彼女たちの言葉には一切耳を貸さなかった。帰りなよ!仕事はやっておくから。と言ってくれる彼女たちに、眠れなかっただなんて言わなければよかった、とさえ思っていた。

するとチームリーダーのひとりが私にこう言った。

「わかりました!今日は無理せずお願いします。でも、」

でも?

「次にまた一睡もできないほど体調が悪くなることがあったら、その時は必ず仕事を休むと私と約束してください」

私は彼女にバレないように半べそをかきつつ、
「約束する」と答えた。彼女の有無を言わさぬ優しさと強さを含んだその言葉がうれしかった。

で、
その翌日にぶっ倒れた←

結局は無理を押して、心配と迷惑をかけただけだった。

迷惑をかけたくないa.k.a 他人から悪く思われたくない。
あ、そう。
じゃあ、自分は?自分にがんばれ、がんばれって鞭打って、お腹痛い?熱がある?眠れなかった?関係ねぇよ、仕事行け。って、あんた鬼か?私は同僚がそんなことを言っていたら「あんた正気なの?今すぐ家に帰りなさい」と言うだろう。

じゃあ、自分は?
なぜ自分には、その言葉をかけてやれないの。

だから私はもう仕事を休むことに罪悪感を感じることをやめた。私などいなくても仕事は問題なく回る。今はそういう場所に身を置いているのだから。

私は自分がいなければ仕事が回らないという状況に長く身を置きすぎた。今は違う。もう違うんだ。それなのに、今もその時の感覚がアップデートできていなかった。自分にはまだまだ傲慢さと驕りがあった。自己卑下ではなく、そう気づかせてもらえる、ありがたい出来事だった。

今はあの時とは何もかも状況がちがう。自分も変わるべきだ。
そして、”自分がいなければ仕事が回らない”という状況そのものを作り出していたのも結局は自分でしかなかった、と今ならよくわかる。

長くなってきたので、続きはまた。


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