空

「天気の子」映画と小説の両方を堪能した上で書く感想文


※ネタバレを含みます。嫌な方はしっかり映画か小説、またはその両方を読んでからお進みください。

※超個人的な感想文のためもちろんあらすじ全てを網羅するようなものではなく、しかも話があっちこっち飛びます。最初から最後まで超個人の見解です。

映画と小説、それぞれの役割

今まで正直、映画をノベライズ(小説以外の表現手法やメディアで既に作成・発表された作品を、小説の手法で表現しなおして発表すること)する意味がわからなかった。逆は受け入れていた。たとえば『ナラタージュ』とか、もともと小説だったものを映画化するほうは。
いや、意味がわからなかったってことはないけれど、別にわざわざ小説として読み直さなくても、と思っていた。あらすじ知ってるし。

今回、その考えが覆された。

新海さんが小説『天気の子』のあとがきで述べられているように、基本的に小説は文章そのものが勝負だ。対して映画は、映像の表情と色、声の感情とリズム、効果音と音楽など、小説にはない様々な情報が上乗せされている。

映画は一瞬の情報量が多すぎる。絵を見て声を聴いて音楽を聴いて、しかもその音楽に歌詞という形でさらに意味が与えられていたとしたら、1回で全てを追うことなんてできない。

対して小説は、各キャラクターの心情や行動が丁寧に描写され、説明されている。今回、映画『天気の子』を観て、正直理解できないところが何箇所かあった。しかし小説でしっかり意味づけされており、全て(は過言かもしれないけれど)が腑に落ちた。

映画のあとに小説を読むの、おすすめです。言葉がすぐにハッキリとした映像として浮かび上がってくる感覚。わたしは幼いころから読書が好きで、「文字から映像を想像する作業」にとても魅力を感じているけれど、だから尚更なのかもしれない。今回逆の流れを体験し、とても新鮮で楽しかった。

夏美さん

映画を観ただけでは理解できなくて、小説を読んでなるほど〜とスッキリしたこと。個人的にその最たるものは夏美さんだ。本田翼ちゃん。かわいい。

まず、なぜ突然就活を始めたのか全くわからなかった。唐突すぎると感じてしまったのだ。正直彼女にはあまり注目していなかったせいで、わたしが何かの描写を見落としていただけかもしれないが。
とにかく突然、彼女はスーツを着て就活を始めた。

次に、夏美が帆高を助けた理由もちょっとわからなかった。陽菜を助けるために警察から逃げ出した帆高を、就活中にもかかわらずバイクでアシストした夏美。映画では二人の間にそこまでの思い入れというか、信頼関係があるとは思えなかったのだ。

小説にこんな記述があった。

大学四年の夏休み。同級生たちはいくつも企業の内定をもらっているのに、私はまだ就職活動すらしていなかった。都内の実家で生活費にも困っていないくせに毎日アルバイトに通い、かといってそのバイトに熱を入れるでもなく、なにかに抗議するような心持ちで毎日を意識的にだらだらと過ごしていた。そのなにかとは言葉にするならばたぶん「親」とか「社会」とか「空気」とか「義務」とかで、それが幼い反抗心だとは分かってはいても、私はどうしてもまだ就活をする気持ちになれないでいた。

加えて、夏美の親は東大卒の官僚であること、つまりめちゃくちゃ優秀であることが描かれていた。なにも知らずに映画を観たときは"ちょっとチャラめの明るいお姉さん"くらいの印象しかなかったが、彼女は親が優秀であるがゆえに息苦しさを抱える、繊細で悩める女性だったのだ。

それから、夏美と帆高、お互いが相手に感じる思いもしっかりと描かれていた。

夏美→帆高

圭ちゃんが彼を拾った理由が、私にはなんとなく分かるような気がした。私も圭ちゃんもその頃たぶん、きっかけのようなものを探していたのだ。自分の行く先を変える、ほんのすこしの風のようなものを。信号機の色が変わる、ほんのちょっとのタイミングのようなものを。
ほら、夏美さんも起きてください
──私の肩を揺する彼の声を聞きながら、きっともうすぐ──この夏が終わる頃には、長く続いていた私のモラトリアムも終わるのだという予感のようなものを、私はぼんやりと感じていた。

帆高→夏美

皆が取材でなんでも話してくれるのは、だからだ。女子高生も大学の研究者もいつかの占い師も、相手が夏美さんだからこそあんなふうに喋ったのだ。誰のことも否定せず、相手によって態度も変えず、きらきらした好奇心で相づちをうってくれるこの人だから、荒唐無稽なことでも皆すんなりと話せてしまうのだ。

就活をしていなかった理由、そして帆高がきっかけとなってモラトリアムを抜け出そうと思ったこと、お互いへの印象。これらを映画でしっかりと汲み取ることができずモヤモヤしていたが、小説を読んでストンと納得した。

映画を2回観るのもいいけれど、どうせ2回行くなら映画→小説→映画のように、間に小説を挟むともっと面白いんじゃないかなあと思います。

「世界」の定義

大学の講義で、文学部の先生が「名作は分析に耐えうる力がある」というようなお話をされていた。つまり議論の余地があるということだ。様々な解釈がありえるからこそ議論が生まれ、後世に伝わる作品となっていく。

『天気の子』は名作だと感じた。特に「世界」という言葉について考えたい。作者が一つの言葉を複数の意味で定義して使い分けているとしたら、それは解釈・議論の余地があると言えると思う。

現実、つまり圭介や夏美や凪、そして警官たちがいるのも「世界」。
陽菜と帆高が鳥居をくぐって辿りついた向こうの空間も「世界」。
そして一人ひとりが生きている「世界」。

『天気の子』は選択の物語だと思う。それぞれが選択してつくりあげた様々な「世界」で、この現実の「世界」は成り立っている。


保護観察処分を終えた帆高が、東京で圭介と再会したとき。

「お前たちが原因でこうなった? 自分たちが世界のかたちを変えちまったぁ?」
「んなわけねえだろ、バーカ。自惚れるのも大概にしろよ」
「世界なんてさ──どうせもともと狂ってんだから」

帆高が陽菜を取り戻してから、3年間雨が降りつづけていた。それを自分のせいだと気にする帆高に言ったセリフが、上記のものだ。

ここで圭介が言う「世界」とは、現実の世界のことだろう。一人ひとりの「世界」が集まってできている現実の世界。狂ってて当たり前だ。そこには様々な「世界」が共存しているのだから。

ちなみにここで圭介と再会する前、帆高は富美さんというおばあちゃんに会った。彼女は、東京はもともとは海だったこと、だから結局元に戻っただけだと言った。


その後、陽菜に再会したときの帆高の記述が以下だ。

違った、そうじゃなかった。世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。あの夏、あの空の上で、僕は選んだんだ。青空よりも陽菜さんを。大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を。そして僕たちは願ったんだ。世界がどんなかたちだろうとそんなことは関係なく、ただ、ともに生きていくことを。

帆高はたしかに世界を変えたのだろう。自分の「世界」と陽菜の「世界」を変えたのだ。そして彼は、それらの世界を変えたと認めることを選択した。

ある目線で見れば世界は変わっていないし、ある目線で見れば世界は変わった。圭介と富美さんは変わっていない世界を選択し、帆高は変わった世界を選択した。


なぜかわたしは、『おろしや国酔夢譚』を思い出した。

これは、大黒屋光太夫をはじめとする日本人数名がロシアに漂着したときのことを題材にしたもので、光太夫たちは日本に帰国したいと懇願するもなかなか受け入れられず、なんとか現地で生活をしながら帰国の道を模索するというお話だ。
正直詳細は覚えていないが、一つ印象的なシーンがある。

西田敏行さん演じる庄蔵という男は帰国の意志が強く、途中で仲間を大勢失いながらも精一杯日々を生きていた。

しかし彼は、凍傷のせいで足を失ってしまう。最終的に、ロシアに帰化することを選んだのだ。

この決断はわたしにとって衝撃だった。たしかに片足を失ったせいで帰国は難しくなった。しかしあんなに帰国を切望していた男が、ロシアに残る選択をしたことが信じられなかった。映画では現地の女性と仲良く微笑んでいる描写があり、なぜかそれにもショックを受けた。

2つ見方がある。

1つ目は、困難のせいで当初の思いを捨て、いわば妥協したと捉える解釈だ。わたしは最初そう感じ、とてつもなく悲しくなった。

2つ目は、自身に起こった不幸を受け入れ、その状況で考えうる最高の決断をしたという解釈だ。


選択は、難しい。人生は選択の連続で、人は自分が選択したことで自分になっていく。それなのに難しい。だからこそ難しい。

しかし帆高は、世界を変えたと受け入れることを選んだ。しかも晴れやかな気持ちだ。選択することはもちろん、選択した先の人生にも責任を持ったのだ。

チェーホフの銃、重なる罪

チェーホフの銃という表現は、ストーリーに持ち込まれたものは、すべて後段の展開の中で使わなければならず、そうならないものはそもそも取り上げてはならないのだ、と論じた、アントン・チェーホフ本人の言葉に由来している。

帆高は、かなり序盤で銃を拾う。その銃が、たとえば1回目は陽菜の考えを変え、2回目は圭介の考えを変えるきっかけになっている気がしなくもないし、なにより銃のせいで帆高は警察に追われる身となった。間違いなくキーアイテムだ。

なんで銃? 設定おかしくない? みたいな批評も出てきそうだが、「チェーホフの銃」を意識したのだとしたら、むしろ銃がそのまんま使われていてとてもわかりやすい。

また銃だけではなくて、帆高は色々な罪の疑いをかけられた。
銃を持っていたことと人に向かって発砲したこと、公務執行妨害、あと線路を走ったこと。

銃は「罪」の象徴で、別になんでもよかったのかなとは思う。人柱=陽菜と引き換えに青空が戻ってくる。帆高が陽菜の代わりにたくさんの罪を背負ったからこそ、陽菜を助けることができたのだと思う。

RADWIMPSの音楽が最高

特に「大丈夫」という曲が最高だった。

君を「大丈夫」にしたいんじゃない、君の「大丈夫」になりたい。

帆高の陽菜に対する想いとして、こんなにふさわしい言葉があるだろうか。


ちなみにこれを聴いたときWEAVERの「くちづけDiamond」を思い出して歌詞を検索してみたら、結構この映画にマッチする……


最後に天才的なネーミングにも触れておく。

=船のに張って、を受けて船を進ませるもの。
=風がやんで、波がなくなり、海面が静まること。

人""である陽菜。""は何回も、警察などの""に歯向かいながら進む""高をアシストする。気持ちいいくらい綺麗なネーミング。

とっても好きな作品だった。次回作も楽しみ!!


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