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日本の「食」が失ったもの。

今、モロッコのメディナ(旧市街)にいる。

各地を歩きながら思うのだけど、食べ物について、「土用の丑の日」とか、「○○の日(例:さんま祭り)」とかを定めない方が良い。

貯蔵がきくもの(穀類、保存食、冷蔵冷凍品)や、年中あるもの(畜産物)ならまだ良いのだけど。
天候や環境によってかなり変動がある海産物や野菜は、向かない。その日に合わせて未熟なものを流通させることになったり、足りないからってコストかけて輸入したりする羽目になる。

採れた時、市場にある時が「食べ時」。
まだ出荷時期じゃないとか、脂が乗ってないとかは、生産者が判断するのが一番。良いものが流通し始めた時を、旬と呼ぶ。事前に日付が定まったものではないのだ。

モロッコやスペインは、それほど流通や物流が高度化されていないから、必然的に地産地消になるし、その日に入っているものに一喜一憂している。
今日手に入る(結果として、最もリーズナブルな)ものを買い、どう美味しく食べるか、どう保存しておき、いつ、どう使うかを「真剣に」考えている。

ピクルスとか干物は、市場にはあまり売ってない。スーパーに少しばかり。みんな、そのくらいは自宅でやるからだろう。

僕らはどうだ。

毎日同じものが手に入ること、毎年決まった日に決まったものがあることへ、疑問を持たなくなっている。保存がきくものをわざわざスーパーで買い、賞味期限とやらで廃棄する「気が狂っている」生活を、親の世代からしてはいないか。

生産者(産地)も市場も、年間安定供給こそが価値だ、成功だと、競争とコスト投下に余念がない。その結果として生まれた過剰供給と市価暴落の世界。愚かだ。

失われていく料理や加工技術や生活慣習以上に、食べ物や、命や、季節から離れてしまっていることが、一番こわい。この数十年間の日本人は、日本列島に住んでいるだけの、地球外からきた種族のような異質な存在に思えて来る。

改めて、「旬」という意味を考えてみる。

「旬」は、文字の成り立ちとして約10日のことを示したり、すみずみまで行き渡るほど沢山の、という意味だそうだ。
毎年毎年、場所場所で異なる短い(10日程度の)最盛期を感じながら、「あるもの、あるとき、あるだけ」を楽しめるような"豊かな生活"は、どうすれば広がるだろうか。

そんなことを、考えさせられている。

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