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【本】芥川賞が選ばなかった最先端の日本文学3選

 村上春樹、高橋源一郎、島田雅彦、中原昌也。これらの作家たちに共通することがある。それは、優れた前衛小説を書きながら、芥川賞を取らなかったことだ。芥川賞は、半年に一度やっているわりに、これぞという作家たちを漏らしてきた。(新人の傑作が候補にもならないケースが多々ある。)受賞作に不満はないけれど、2010年代の重要な作品が忘れられているのはもったいない。

 私はべつに専門家でもないが、日本の現代文学で、忘れられてほしくない作品を記録しておきたいと思う。近年のベスト3をあげるなら以下のようになる。

Ⅰ 青木淳悟『私のいない高校』(2011年)

 19世紀の偉大な文学は、人間や人生の〈意味〉と真っ向から対峙し、精神的葛藤を詩的表現極まる文芸によって築き上げた。19世紀が〈意味〉との闘いだったとすれば、20世紀の文学には〈無意味〉との闘いのようなものがある。ナンセンスからシュールレアリスム、ダダイズムの系譜があり、実存主義や不条理の文学から、思想的には構造主義にポストモダンがあった。論理に収まらないカフカの作品が存在感を持ち、ボルヘスやカルヴィーノは文学にメタ構造の迷宮を築いた。

 〈意味〉の大陸を切り崩していった世紀の決闘の果てに、21世紀はやってきた。そして尖鋭的な作家たちは、はじめから〈意味〉の上には立っていない。どちらかといえば〈無意味〉の上に立って書いている。日本文学のそんな作家の代表格に、青木淳悟がいる。

 2011年の『わたしのいない高校』は、そのタイトルのとおり主人公にあたる人物が存在しない。高校生活のさまざまな出来事・さまざまな人々が記述され、物語になりえる展開も、叙情的になりえる場面もいくらでもあるが、そうはならない。どれだけのことが書かれたかではなく、どれだけのことが書かれなかったかの観点で見ると、青木淳悟の才能がどれだけレアなものかあらためて感じられてくる。

 また、短編集『このあいだ東京でね』収録の『TOKYO SMART DRIVE』(個人的には一番好きな作)は、グーグルマップで表示された街中の風景を描写するというだけの記述。人物さえ出ない。変な見方だけれど、数世代先の未来において、青木淳悟は何かの先駆者として評価が上がるのではないかと思う。AIが小説を書き、仮想現実がより人生に進出していく以前の時代に、本作のような人間のいない小説を書いた、というのは、来るべき何ものかの嚆矢にあたりうる気がする。(アバウトな話だけども。)

 褒めたいと思うのだけれど、青木淳悟の作品は「面白い」というより、むしろ世界でも唯一無二の退屈がある。そしてそれはエンタメ小説の量産型の面白さよりも、間違いなくレアな読書体験を引き起こしてくれる。


Ⅱ 金子薫『双子は驢馬に跨って』(2017年)

 本作は物語をめぐる物語なのかもしれないが、物語が物語であることをもはや担えず、物語られたり物語られなかったりすることによって、物語の崩壊と生成とが同時に進行する様が描かれている。

 概念とかナラティブとかネイションとか、物事を「信じる」ことによって世界が成り立っているのだとしたら、世界は常に物語や何かになるために記憶と忘却とがどこかでせめぎ合っている。この小説は出来事を描いているのではなく、出来事が出来事になっていく最中の、記憶や忘却のせめぎ合いの現場そのものに取材して書いている。(正確には、書かれようとしている最中にある。)

 読み方は人によって違うだろうけれど、私見では『ゴドーを待ちながら』を文学的に越えるものとして読んだ。何かを待つということすら確かでなく、またあてどなさすらなく、待たれている方は待たれている方でこれという意志があったりなかったりし、さらにはたどり着いてしまうにもかかわらずそれが結末にならない。そして記録も記憶もなされないまま再び別の彷徨が始まってしまう、というひどい不・物語。

 ここで書かれる人々は誰も幸せではない。待つ者も、捕える者も、旅する者も、どうしようもない。これが21世紀の〈無意味〉なのだとしたら、惨状といっていい茫漠の世界であり、『ゴドー』がやって来ないことを嘆いていられた旧世紀よりもはるかに絶望的な地平が広がっている。そして残念ながら、そのあたりが21世紀文学の沃野でもあるらしい。


Ⅲ 乗代雄介『十七八より』(2016年)

 完成度や技巧の点では『本物の読書家』(2017年)が素晴らしい。硬派な文学性を兼ね備えた、風格ある見事な中編だった。しかし群像賞受賞のデビュー作『十七八より』は、非常に難しい仕事を仕上げた点で近年屈指の名品だった。どうということはないはずの民芸品に渋味が宿り、他とは比べようのない神妙な味わいを持つように、この中編は絶妙なバランスを持っている。これというストーリーがあるわけではなく、精神の懊悩の表現とか、人生の〈意味〉を問うとか、そういうのではない。

 通常、偉そうな文学作品にしようと思うなら、書くべきでないもの(例:流行のドラマの内容)や出すべきでないもの(例:食卓での家族の普通の会話)は多々ある。本作は人物造形や会話、ちょっとした場面に本来アウトになるものが多量に含まれており、凝り固まった批評家のツボを驚きで押してくる。そのツボに入らない読者にとってはわけがわからないとも言えるけれど、保坂和志の仕事のように、そこには針の穴を通すような、現代の読者を刺激する労作がある。


 他に2010年代の印象的な作家をあげると、篤学かつ野心的な文体を持つ佐々木中と、全然そうではない木下古栗がいる。また機会があればもったいないリストとして紹介したい。


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