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忘れられて、余白

建物が崩されてしまうと、そこに何があったのか、もう思い出さなくなってしまう。毎日、目に入っていたはずなのに。人間の記憶の都合の良さには、ほとほと敵わないな、と思う。

薫はチェーン店のコーヒーショップの二階から、灰色の防音シートが建物を眺めていた。ぬるくなったカフェラテを一口舐める。
ソーサーを置いたチョコレート色のトレーの上で、スマホが震えた。お気楽な調子の文章が、表示されている。
「返事?」
「うん、まぁー」
目の前に座る柚子にゆったりと返事をしながら、スマホを手に取った。
「薫、お人好しが過ぎるよ。返事しなくていいって」
パッと手を伸ばし、薫からスマホを奪い取った。彼女は静かにそれを机に伏せる。
「もうほっときな、あんな男」
柚子は手元のキャラメルマキアートを、ごくごく飲んだ。もう、全く熱くないのが、その仕草だけで分かる。
「…別に、透くん、悪い人じゃないのに」
「私の経験上、報連相をしない人は性根が曲がってる人よ」
「柚子の偏見だよ、それは」
「だいたい、透くんって約束すっぽかす常習犯じゃな」
「そんなこと、」
ない、とはっきり言い返すことができない。確かに彼は約束をあっさりと忘れる、とても都合のいい人間だ。

伏せられたスマホが、もう一度震える。きっと、透からのメッセージだ。
返事をしなくては、彼に悪い気がする。薫はため息を誤魔化すように、カフェラテに手を伸ばす。緩んだ白い渦のようなミルクの泡が、吐く息で揺れた。
「柚子…」
カフェラテに口をつけることはなく、そのままソーサーの上に置く。
「あの、建物、なんだったか覚えてる?」
視線を窓の外に向ける。防音シートが風に吹かれて、揺れていた。
「あれ?うーん、と」
「私たち、大学の頃からここのお店に通ってたのに、思い出せないんだね…」
柚子はぐっと身を乗り出すように、窓の外を見つめている。
そんな彼女の、形のいい横顔をいつから知っているか。いくら思い出そうとしても、薫には無理だった。

柚子とは大学一年の頃からの付き合いだ。社会人になってから付き合いだした透なんて比ではないくらい、ずっと一緒にいた。このコーヒーショップで一緒にレポートを書いたし、就活の履歴書も書いた。
柚子が後輩の子から来た告白の電話を取ったのは薫の隣で、透が自分との約束を忘れるたびに相談に乗ってくれたのは柚子だった。
小学生の頃、トイレまで一緒に行くような友達がいた。もう会ってはいないけど。
薫にとって柚子は、あの頃できた友達のような、なんでも安心して分かち合える存在だった。

彼女はまだ、窓の外を見ている。
「柚子、もう、行こう?」
「え?いきなりなんで?」
「いいから」
伏せられた自分のスマホに手を伸ばし、カバンに乱暴に入れた。また、メッセージが届いた振動が手のひらに伝わったけれど、今はどうでもいい。
チョコレート色のトレーを返却口に押し込んで、階段を降りる。柚子のヒールの音が、薫を追いかけてくる。
「待って、いきなりどうしたの?」
彼女の声に振り向いてしまえば、薫は全てを語らなくてはいけなくる。

あの防音シートの向こう側が見たい。
コーヒーショップを出ると、二車線の道路を、車が来ていないのを確認して走って渡った。横断歩道じゃない車道を走るなんて、自分にとっては結構勇気のいることだった。
「薫っ!」
柚子が引き止めてくれる声がする。でも、その声に振り返っていたら、向かってくる白い軽自動車に轢かれてしまうような気がして、薫はそのまま走りきった。
息を整えて、工事の看板が立てられ、灰色のシートで覆われた先を覗き込む。
右へ左へ。身体を捩りながら、つま先立ちになって。
「薫っ!」
大きな声と共に、肩を叩かれる。柚子の手は、暖かくてほっとする。
「薫、いきなり、どうしたの」
なんでもない、と返事をしたつもりだった。
その時、強い風が吹いて、灰色のシートが捲れる。
くすんだ窓ガラスの向こうには、崩れた壁の欠片と、黒くなった大きな籐のカゴがいくつも積んであった。ここは、かつて銭湯だったのだ。
思い出せた、というよりも、初めて知ったその場所のことを思うと、薫は声が震える。
「ねぇ、柚子…私、透くんを嫌いになってもいいんだよね…?」
「何言ってるの?当たり前でしょう」
「うん、当たり前、だよね…」
もう壊されてしまう銭湯を前では、涙も出なかった。すっかり朽ち果てて行こうとしているものに、悲しみを寄せるほど、自分たちはこの銭湯に思い出はない。
薫はもう見えなくなった防音シートの向こう側を想う。あの積み重ねられて打ち捨てられる籐のカゴのひとつが、自分だ。
「薫…やっぱり、訂正する」
柚子が隣でぐっと顎を突き出すように、視線を上へと向かわせた。
「嫌いにならなくてもいい。そのかわり、忘れちゃえばいいよ。ぶち壊して、更地にすれば、何も残らない」
薫は、思わず柚子と同じように、視線を上へと向かわせる。

灰色の防音シートが終わり、そこから先は青い空だ。

がしゃん、とくすんだガラス窓が割れる、音がした。

写真
燐果さん(@hazy_palemoon)
フォロワーさんの素敵な写真にお話をつけさせていただきました。女の子やりとりを書きたかっただけのような気もします笑

お前はもっとできると、教えてください。