人間はなぜ存在するのか

 絵が「モナリザ」だけだったとしたら、絵=モナリザ、になる。言葉が区別のために存在するのなら、モナリザ以外に絵がない場合、モナリザと区別するものがないので、絵という言葉は不必要に=無意味になる。つまり、なにかを抽象化できるのは(この場合は絵)、二つ以上のものがある場合に限る(この場合はモナリザとか真珠の耳飾りの少女とか)。

 では、人間というのは抽象的な言葉なので、人間は二人以上いることになる。そして、なぜ人間という言葉を作ったかと言うと、便利だから。つまり、そう言いたかったから。なので人間という観念を持つということは人間(私は一人なので、私以外の誰か最低でも一人の他者)を欲するということである。

 そして、この世のあらゆる人間は人間の観念を持つ。つまり、誰もが「他者が欲しい」という欲望を持っているのである。個々人のそれぞれの欲望には個人差があるが、この欲望だけは共通であり、つまり「ガンダムはかっこいい」はともかく「人間はいる」は個人差が関係しないので実質的に真実である。人間が存在そのものを欲望によって解釈する存在であっても、誰もが同じ欲望を持つのであれば、同じ解釈になり、真実が見出されたのだ。

 【追記】

 美しい花を5つ見つけて、花とは美しいのである、と言ったあとに美しくない花を見つけたら、花を「美しいのが多いが、美しくないのもある」と定義し直す。

 しかし、「花とは美しいものであって、美しくない花は存在しないし、なにか別の存在である」と定義すれば、花は美しくなる。

 ところで、花の存在も、美しさの存在も、美しい花の存在も、私の欲望で生まれるが、そこで万人の欲望が一致するのであれば、その点においては世界観が一つしかない=もはや「観」という個々人の見方の問題ではなく、「世界」になる。つまり、この世界の事実となる。

 そして、世界に神が存在するのか、正義はあるのか、それは万人が神を欲するか、正義を欲するかの問題になるので分からないが、少なくとも神を欲する集団の中では世界観が一致するので事実となる。

 振り返ってそれを説明すると、「私は花が美しいことを望むから、私にとって花は美しい」から「私も彼も花が美しいことを望むから、私たちにとって花は美しい」へ、そして「この世のすべての人間は花が美しいことを望むから、この世のすべての人間にとって花は美しいし、醜いと思う人間はいないので=花が美しい以外の見方がないのでそれは事実である」。

 もちろん、花を醜く思う人間が生まれてくるかもしれない、そう言うことはできる。しかし、この世界に花を醜く思う人間がいないのなら、人間の定義とは「花を醜く思わない(美しく思う)」なので、その文章は矛盾する。

 万人がなにかを定義するとき、万人も定義される。

 また、欲さなくても、否定しなければいい。

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