存在について・試論


 前書き

 一つくらいきっちりした記事を書きたい、他人に紹介できる記事がほしい、一つの思想を体系化したい、そういう思いが数か月前からあった。題材として、存在そのものを取り扱おうと思う。なぜなら、あまり興味のない分野だからこそ、熱狂的にならないし、練習の材料として多少は雑に扱えるからだ。そして存在論が最初に取り組むべき哲学だと思ったからだ。

 できるかぎり専門用語は使わずに、スイーツなどを使って書こうと思う。
この記事内の造語は実際の哲学用語と被ることがあるが、新しいものとして考えてほしい。この記事にはいくつかの項があり、各項の最後に要約があったりなかったりする。

 【追記】書きながら新しいアイデアが浮かんできたため、また元になった個々の記事の雑然さのために、この記事自体が下書きのようになってしまった。完成は諦めて、この記事をⅠとし、Ⅱをいずれ書く。

 存在構造

 「ヌマンチョベベロンマン」という漫画が存在する。「グマンチョベベロンマン」の続編で、作者は「ヌマン・チュベロン三世」。主人公のチョベベロンがチョベロン星を冒険する、という内容だ。

 はい、ググりましたか。こういう漫画、出てきましたか。出てきませんでしたね。なぜなら、これは私がいま適当に考えた漫画だからです。さて、なぜ私は「存在しない漫画」について考えることができたのだろうか。

 私に「日本語」「漫画」「妄想できる能力」などという存在の知識があるからだ。「ヌマンチョベベロンマン」はなくても、「ヌマンチョベベロンマン」と言うために必要な知識は存在するから、言えるのだ。

 また、「日本語」「漫画」「妄想できる」という知識は他の架空の漫画も考えられるし、しかし「架空の漫画」という知識がなくてもそれらは成立する。つまり、今回は一つだけ・・・「日本語」を取り出すが・・・「日本語」は「架空の漫画」の上位にあるようだ。では、日本語の上位にあるものはなんだろうか。「言語」であろう。「日本語とは言語である」とは言えるが、つまり「言語」が「日本語」という言葉の存在を支えることはできるが、「言語とは日本語である」とは言えないからだ。

 では「言語」とは、「記号や音」か?「記号や音」とは、「この世界に存在するもの」か?と、遡ろう。そして最終的に、「存在そのもの」となる。あらゆるなにかは存在するものなので、「存在そのもの」はあらゆるなにかを支えることができるが、あらゆるなにかを支える立場にあるということは自分が支えられることはできない。つまり「存在そのもの」はあらゆるなにかを支えつつも自分は支えられる必要のないものである。

 ・人間は存在するものについてしか語れない
 ・この世の存在は他の存在と関係している
 ・「存在そのもの」は「存在そのもの以外のなにか」を支えつつも「存在そのもの以外のなにか」に支えられることのない最終的で究極的で最上位の存在である

 存在しない存在

 なにも存在しない世界は存在するか、中学生のころからずっと気になっていた。結論としては、存在しない。「なにも存在しない世界が存在する」ということになるので。

 水槽の脳が見せられている世界は存在しないのか。たしかに、水槽の脳が「これは存在する」と思い込んでいる世界は存在しないが、水槽の脳が思い込んでいる世界と見せられている世界と水槽の脳が存在する世界は少なくとも存在している。

 ・存在しない存在は存在しない=あらゆるものは存在する
 ・「われ思うゆえにわれあり」のように、見ているものが存在しなくても見ている主観と主観が存在する世界は存在する

 存在以外存在

 存在そのものは変わらない(厳密には変わる可能性がない)。変わってしまえば、「存在そのものとは存在そのものであり変わることもあるものである」と、説明できてしまい、「存在そのものとは存在そのものである」という説明だけで成り立つ存在そのものでなくなってしまう。

 変わるものは、存在そのもの以外である。たとえば牛乳はソフトクリームになるし、ソフトクリームは解ける。

 存在を成り立たせる存在

 たとえばクレープの存在を成り立たせるのは小麦粉とか牛乳とか砂糖とかの材料、クレープを存在させられる物理的な空間(置く場所と考えてもいい)である。存在そのものはなにによって構成され、どこに存在するのか。

 存在そのものは変わらない。存在そのもの以外は変わる。なら、存在そのものを構成するものに存在そのもの以外が含まれているはずがない。しかし、なにかによって存在そのものが構成されているのなら、存在そのものは存在そのもののみによって構成されている。

 しかし、存在そのものは存在そのもの以外を構成する一部である。だからクレープは存在できるし、クレープが食べられて栄養に変わったとしても、栄養は存在しているということは、存在そのものが栄養に移った=存在そのものはやはり変化しない(消えない)。

 存在そのものは語りえない

 「存在そのものは考える対象になるし感じることもできる」という文の、「語る対象になるし感じることもできる」とは性質のことを言っている。この性質とは存在そのもの以外なので、存在そのものが存在そのもの以外に説明されている=存在そのものを存在そのもの以外が構成する、という矛盾が起きる。

 ゆえに、存在そのものについては考えることも感じることもできない。いや、いましてるじゃないかと思うだろうが、私は「存在そのもの」という言葉について語っているのであって、「存在そのもの」という「存在そのもの」について語っているわけではない。

 では、どのように存在そのものに迫ることができるのかというと、存在そのもの以外をすべて排除する方法によって、である。要は、赤青緑のボールがあって、赤のボールを指し示したいときに、しかし指し示せないときには、青のボールと緑のボールを除くのである。

 なので、「存在」という言葉はなくした方がいいかもしれない。語りえないものを語ろうとして「存在しない」と言える余地を作ってしまった。

 存在そのものとの付き合い方

 我々は無意識のうちに存在そのものを受け入れている。たとえば、マジックでトランプが消えても「どうして消えたのだろう」と、今度は「消す方法が存在する」という別の存在を探る。ラーメンは食べられたら消えるが、それが本当に虚無に葬られたなんて思わずに栄養に変わったと思う。また、道路の存在も疑わないから歩ける(疑うとしてもそれは物理的な現象、地盤の沈下などの存在を)。存在そのものとの付き合い方は「当然とする」という態度である。

 また、存在そのもの以外は存在そのものではないが存在そのものを一部に含み、思考や感覚の対象になるので、存在そのもの以外を考えると存在そのものを前提とする=思考も感覚もなしにおまけのように捉えられる。
つまり、クレープ屋でJKが「私チョコバナナにする~~~」「私はいちごカスタードかな~~~」と言うとき、厳密には「私チョコバナナ(クレープ)にする~~~」「私はいちごカスタード(クレープ)かな~~~」のクレープの部分が存在そのものだと思ってほしい。

 存在そのものの全体性と唯一性

 私とは唯一の存在である。私を構成するものは、血や肉や骨や皮。私から血を一滴採ったとして、それでも私は私だろうか。いや、そこには「血を一滴採られる前の私」と「血を一滴採られた後の私」がいる。私という唯一は無数(まあ骨は数えられるけど)のものによって構成されており、少しでも欠かせば私はいなくなる。

 存在そのものは唯一の存在である。この世界(地球を含むが地球のことではない)のすべて以外になにがあるだろうか。つまり、世界という、すべてを含むものの外になにかがあるだろうか。いや、ない。ではこの世には世界しかないということにある。では、存在そのものとは世界のすべてであり、世界のすべてとは存在そのものである。

 いや、クレープのような変化するものを存在そのものは含まないと思うかもしれないが、クレープはなぜクレープなのだろうか。なぜ食べ物ではなくクレープと言うのかと言うと、その方が便利だからである。つまり、名前など人間が作ったラベルでしかなく、どこまでも抽象化すればなにもかも「存在」の一言に集約できる。つまり、「この世界には存在しかない」となり、この世界も存在なので「存在には存在しかない」となる。重複表現をなくせば、「存在」の一言に帰結する。

 追記

 存在そのものは不変であり動詞を帯びない。また、存在そのもの以外になにもない=存在そのものしかないので存在は主語になれない。よって、「存在する」という言葉は成り立たない。

 存在そのものが、変化する存在そのもの以外で構成されているなら存在そのものも変化するのではないかと思うが、これには2パターンある。時間は存在しない(変化などない)か、変化するということそれは変化しない(永遠に変化することは変化しない)ということ。

 個々の存在以外存在は存在そのものを一部として構成するし、存在そのものを一部として取り込む。

 存在そのものは、存在そのものを存在させている能動でありつつ存在そのものに存在させられている受動である。

 存在には、妄想として存在するとか、物理の触れるものとして存在するとか、さまざまな存在方法がある。

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