認識について・試論

 ↑一応これの続編ですが、読まなくてもたぶん大丈夫です。
また、念のため言っておくと、ここで言われる「欲望」は「善人になりたい」「無欲になりたい」なども含みます。


 欲望の世界観

 前の、さらに前の記事で、存在そのものの全体性は世界であり唯一性は世界である=世界とは存在そのものであり、この世界には存在そのものしかない、と述べた。では、なぜいろいろなものが見えるのか、それは、我々が見たいからである。

 絵がこの世に存在するかは分からない。人間の感覚と思考は必ずしも正しいとは言えないから、絵の存在を確かめることはできない。ただ、絵を見たいと思えば、絵がなくたって絵を見ることができる。ある人と付き合いたい人は付き合っていなくたって付き合っている光景を見れる(それを妄想と言うが、妄想とそれ以外は区別できない)。そして見ようと思わなければ絵は「色付きの紙」に見えるか、そもそも認識すらされないだろう。

 そうして欲望によって見出された=作られたものを集めることで世界観=本人にとっての世界が生まれる。しかし、人間は未知=世界観の一部が欠けていることを不安に思うがゆえに、他人の世界観=他人が見たがっているものまで自分の世界観=自分が見たがっているものの中に入れてしまい、異物感に苦しむ。また、自分が見たがっているものを他人に押し付けたり、押し付けられたりしまう。

 ゆえにどこまでも自分の欲望を突き通そうとすること、そうでなければ世界観がなくなり、存在そのものしか見えなくなる=存在そのもの以外がないのでなにも見えなくなる(赤色以外の色を知らない人には青色や緑色との違いが分からないので赤色の定義も不可能になり、赤色も見えなくなる(色だけが見える))。

 たいていの欲望にはなんらかの障害、たとえばいい絵を描きたいという欲望には才能がないという障害、がつきものだ。その場合、新しい欲望に再構成される。この場合は、「いい絵じゃなくてもいいから描きたい」「努力でできるところまでやってみたい」「絵を描くこと以外でなにかしたい」というように。だから強欲に生きようとしても幸せになりたい欲望は幸せになりたいがゆえに前進して勝手に折り合いをつけてくれるので安心してほしい。

 問題は、障害を正しく認識できないこと。才能がないのに才能があるかも思って再構成をできていない状態が一番不幸で、それより思いっきり絶望した方が長い目で見ればよい。

 欲望を自覚するためには障害物を置くといい。いい絵を描けなかったときに、私はいい絵を描きたかったんだと気づけるように。しかしもっと簡単で一般的な方法は「今日死ぬとしたらどうする?」という質問である。その時間を「明日死ぬとしたらどうする?」「明後日死ぬとしたらどうする?」「来年死ぬとしたらどうする?」と延長していくことで、自分がどれくらいの強さの・どのような欲望を持っているか分かる。

 ある欲望が強いか・弱いかは偶然に決まる。コーヒーが手に入りやすい地域であればコーヒーを飲みたいという欲望は強くないが、コーヒーが手に入りにくい地域であればその欲望は強欲と呼ばれる。そして、欲望が意図的に手に入らず偶然に与えられることを鑑みれば、強欲なんて言葉は誹謗中傷のための言葉だと分かる。

 【追記】

 記述には、「〜である」という事実を述べるもの=科学的・現実的なものと、「〜であるべきだ」という主張を述べるもの=倫理的なものがあり、しかし唯一の確実な事実は「存在そのもの」についてのみである。

 この、事実と倫理を合致させることかできれは、世界はよりよくなるのだが、「〜であるべきだ」は「〜であるべきだと思いたい」という意味なので、事実=万人に共通する見解と一致しない。

 だから法律や常識を欲望に対して障害物として配置して、「好きに生きたいが、好きに生きるためには法律を守ったり常識を理解した方がいいので、そうしたい」と再構成させるのが重要だ。

 望まないのに存在するものがあるとしたら、それは実在すると言っていい。ただ、無意識で望んでるとか言い出すと分からない。

 排除の欲望

 「これが欲しい、これをしたい、これになりたい」という単なる欲望は生きるために必要だが、「これは欲しくない、これをしたくない、これになりたくない」という、なにかを排除したがる欲望は人を弱らせる。

 この欲望は満たされても幸せにならない。なぜなら、不幸を回避したがる欲望だからだ。不幸を回避することはいいことに思えるかもしれないが、「なんも不幸がないが幸せもない人生」は、自分が望んだわけでもない生命を与えられ、望んでもいない「死にたくない」欲望に突き動かされているだけの、つまり「生かされた人生」である。生きたいと思って初めて「生きる人生」になるのである。「死にたくない」は万人に共通する本能であり、それしか持たない人間はもはや万人である=誰でもなく、存在しなくなる。

 なんの幸福も不幸もない人間は生きていないが、幸福と不幸のある人生はその半分は生きている。実際的な話をすると、恋をしないか失恋をするかなら失恋した方がいい。失恋はつらいが、恋している最中は幸せだからだ。

 これほどまでに欲望が重要なら、最大最高の、あるいは再構成が不可能な唯一の究極の不幸は、欲望を失うことである。欲望がすべての原動力であり、「幸せになりたいと思わない」者は病気を治す気のない病人のようなもので、しかし勝手に治療しようとすると排除の欲望で拒否してくるので、手の打ちようがない。

 それだけならともかく排除の欲望が「生きたくない」に至ることがある。そこで我々がすべき治療は「生きることは辛くない」ではなく「生きることは辛いがそれ以上に楽しい」と、排除の欲望を満たすことではなく普通の欲望を掻き立てることである。

 超個別化能力

 見たいものが見える、欲望を持て、それが二つの項の結論だ。それを極められれば超個別化能力を獲得できる。それを普通の欲望と排除の欲望の二つの例を使って説明する。

 「絵を見たいので絵を見ているが、私がしていることを厳密にいえば、2024年4月24日22時36分54秒に絵を見る、2024年4月24日22時36分55秒に絵を見る、2024年4月24日22時36分56秒に絵を見る、という連続である。私はまた絵を見ることができるだろうが、まったく同じ条件で見ることはできないし、この瞬間に見ているからこそこの絵がいい絵に思えるかもしれないのなら、いま、この絵を見たいと強く思うし、見れることに感謝する」。

 「失恋を辛いと思ったが、二度目の失恋は辛くなかった。私が辛いと思っていたのは最初の恋人との失恋で、二人目の恋人との失恋はそうでもなかった。最初の失恋が辛すぎたから、どの失恋も辛いのだと思ってしまった」。

 【追記】

 また、失恋して辛かったという話は奇妙である。なぜなら、失恋そのものは世界中のどこを探してもない(あったとしても頭の中にだけある)からである。あるのは、いつかどこかで誰かが誰かとなんらかの方法で行った失恋だけだ。

 好きなことも嫌いなことも差別することなく見ようとする、どこまでも抽象性から離れて具体的にすること。それによって得られる超個別化能力は幸福を促進し不幸を減退させるだろう。

 個人を個人にならしめるものが「違い」なのであれば、その違いを鮮明にすることが生き生きと生きることでもある。それは違いを強くすることではない。どれだけ他人から違おうとしても、どう違うのか説明できなければ違おうとする行動が本当に違くなることに繋がっているのか分からないし、違いの大小は本当のところ分からない。

 またこれは他人に向ければ倫理的な話でもある。他人を抽象化すること、たとえば「人種」「病人」として見ることは具体性=違いの証明を無くして、個人を殺す。

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