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エンタメ系大企業で、お客様も社会も仲間も皆がプラスでつながる仕組み作り(マーケティング)をしています。

最近の記事

上位3%の賢い人だけが知っている質問の本質

何かの質問する時には、大きく2つの方向性がある 具体的な答えを知りたがる ないしは 自分で考えるための材料をする得るため材料を得ようとする人 多くの悩みや、問題は具体的な答えは、質問をする相手は持っていない。 なぜなら、ほとんどの問題は個人的なもので、複雑な関係を理解している当人でないとわからない情報があまりに多いからだ。 回答者の答えは、あくまでも回答者の独自の状況における答えであって、その答えを真似ても、機能しない事が多い。 偶然、ほとんど同じような性格、状

    • 持たない人間の強さと、いらないものを持ってしまう弱さ

      人は何かを手に入れると、ひとまずそれを使おうとする。 つまり、持っているものを起点になにかできることを考えてしまう。 たとえ、なにか少し考えたら、別のよい道具や手段がある場合も、多くの場合既に持っているものを利用できないかを考えてしまう。 これは、やばい特徴だ。 だからこそ、何も持たないものや未経験の方が強いことが世の中にはよくある。 経験者は、役立つかはわからない過去の経験をベースに考えてしまうし、 鉛筆を持っていたら、ペンのほうが適していても、鉛筆で書き始めて

      • 視座を高くと言われても…

        視座を高くとか、経営者目線でとか、2つ上の役職を意識してみよう これは、若手のビジネスマンへのよくあるアドバイスだと思う。 ただ、大局を見てなさそうな平社員が経営者目線で、物事を考え、会社全体の利益を考えてみる そして、課長や部長クラスが自分の役職通りの目線で考えてみる この場合、決して課長や、部長は下っ端が、自分より視座が高いことを認めないだろう。 少し上の視座を持つことが役立つ、好意的に判断されるのは、 リスクを負っている経営者と話す場合 ないしは 相手の

        • あまり教えてもらえない本当のターゲティング

          ターゲットを絞りすぎる そうすると、それ以外の人が遠ざかる排除するようになる かといって、抽象的過ぎる すると、なかなか自分ごとだと思ってもらえず、興味を持ってもらえない。 結局のところ、ターゲットはバランス調整をし、最適なものを探るということが肝だ。 ターゲティングとは、バランス調整をした結果、 あくまでも結果が最大になるために行う。 決して数を減らすことに目的があるわけでもなく、絞り込んだからいいものではない。 あえて対象を絞らないというターゲティングもあ

        上位3%の賢い人だけが知っている質問の本質

          努力すれば成功するなんか、嘘っぱちだが、それでも努力はしたほうがいい

          努力すれば、報われる 頑張れば、幸せになれる こうした、きれいな言葉は僕自身は嫌いじゃない。 弱いもの、持たないものの立場に立ったとき、 何よりも可能性を感じられることが希望になるからだ。 希望があるから、頑張れる。 だが、成功者が、成功していない人に対して言う場合は、別だ。 「努力をすれば報われる。だから成功してないやつは努力不足だ。」 「頑張れば幸せになれる。 だから頑張って嫌なことがあっても仕事をして、会社のために頑張れ。」 こうなったら要注意だ。 成功

          努力すれば成功するなんか、嘘っぱちだが、それでも努力はしたほうがいい

          心と身体のどちらから手をつけるのが正しいのか?

          結論から言うと、特にどっちが大事という絶対的な優先度はない。 ただ、あなたがやりたい方を優先すればいい。 体が悪くなれば、心も荒むし、心が荒めば、体にも悪影響がある。 つまり、本来分化して考えること自体がおかしく、どっちも大事であり、どっちも同じ自分であるということだ。 いやいや、そうは言っても、どっちか優先度があるでしょ?という方がいれば、僕のアドバイスはこうだ。 自分の中で、体の健康を維持するための努力と、心の健康を保つための努力、いや努力と言わないまでも、どっ

          心と身体のどちらから手をつけるのが正しいのか?

          広い世界と狭い私

          世の中は、とてつもなく大きい。 世の中をすべてを理解するのは本当に難しい。 世の中じゃなくても、たとえば私がこのNoteを書いている 1LDKのマンションの1室でさえも、全てを理解するのは難しい。 私の視界は、180度弱くらいしかないので、一度に見える、処理できるのは見える範囲だけである。 つまり何が言いたいかと言うと、 自分が得ている情報も、そして人が自分に話をしているという情報も、必ず何らかの形で境界線を引かれて、絞り込まれた一部ということである。 そして、

          広い世界と狭い私

          掛け算には気をつけろ!

          たとえば、開発力 × 営業力 = 企業の力 見た目 × 性格  = 人間の魅力 味 × 値段 × 接客 =レストランの魅力 適当にいくつか作ってみた。 そして何やら、うむ、かっこよく因数分解をできた感がある。 そして、こういうことも言われる。 だからこそ、1つの要素が0やマイナスだったら、最終的なアウトプットや魅力は0になるんだ。 だから全部が頑張らないと意味がないんだ! ある種の真実めいた話であるし、当てはまる例も多いと思う。 ただ、圧倒的にうまいラーメン

          掛け算には気をつけろ!

          黒いランドセルの女の子

          京都の少し田舎を歩いているときのこと。 下校時間なのか、1人の黒いランドセルの女の子とすれ違った。 その後、20秒後くらいに、4人のカラフルなランドセル(赤やピンク、オレンジなど)を背負った女の子のグループとすれ違った。 同じ学年だろうか? それはわからない。 勝手な想像だが、同じ学年だと仮定しても、きっと最初の黒いランドセルを背負った彼女は、きっとカラフルな4人組の女の子とは仲良くなれないと思った。 ジェンダー、色の選択、マイノリティ、集団圧力などいろいろ考える

          黒いランドセルの女の子

          「楽(らく)」と「楽しい(たのしい)」の埋まらない距離

          楽(らく)と楽しい(たのしい) 同じ感じだが、本質的に大きく違うと感じている。 それどころか、相反するというか、両立をすることが極めて難しい。 楽ちんは退屈と結びつく。 何もかも誰もが、何でもしてくれる生活は、楽(らく)であるが、あまり楽しく見えない。 一方で、なにかに打ち込んでイキイキしている、そんな姿は楽しそうだが、楽(らく)なことばかりではなさそう、むしろ苦労のほうが多い気がする。 物事は、こうした同じ言葉でも裏腹の意味を持っていたりすることが興味深い。

          「楽(らく)」と「楽しい(たのしい)」の埋まらない距離

          とあるカレーチェーン店での話。

          カレーを持ってきた店員は、カレーをおいた。私の左後ろから、私がカレーを食べている上を横切って、私の右前にある、伝票入れに、ここに入れておきますねと、伝票を入れた。 私はカレーの上に衣服で横切り、私の食事をしておきつつ、やってやった感じを出した店員のサービスに対して本当に考えていないんだなと思った。 伝票入れに、確実に伝票を入れてほしい客なんか、私はいないと思う。 気にしないといけないのはきっとそんなことではない。そう思う。 そしてそんなちょっとしたことで、感じるカレー

          とあるカレーチェーン店での話。

          「〇〇したら、売れる!」は、奇跡のような一打である理論

          よく「〇〇したら、売れる!」「バツバツするだけで大成功!」であったり、「これをしたら〇〇%アップ」とかそういう話を聞く。 全部が嘘とは言わないし、そこだけみたらそうなんだろうと思う。 だけど、効果がないことも多いと思う。 短絡的に、AだからBというように、AとBだけを見ると、 他の可能性に目を向けない、本当はありえない世界だけを恣意的に切り出してしまう。 本当の世界が、A~Zでもし構成されているなら、A~Z全体で良くならないといけない。 何が言いたいかと言うと、多くの

          「〇〇したら、売れる!」は、奇跡のような一打である理論

          息子の太郎のことだったら、いくらでもわかるだろ?

          ペルソナって言葉がマーケティングをしているとたまに出てくる。 名前、年齢、家族構成、趣味、行動範囲…まああれこれとプロフィールを作って、よりイメージしやすい人を作ってみようという感じのものだ。 とはいえ、ペルソナがうまく使われる場面は正直見ていても多くない、むしろ害があるように感じることが多い。 そこを深く話すのは今回の意図ではないが、別にペルソナを作ったから、画期的なアイデアやサービスが生まれるわけではないと思っているということだ。 では、私の思うペルソナなるものが

          息子の太郎のことだったら、いくらでもわかるだろ?

          マッチョじゃなくても、ガリガリでもいいんじゃない

          良い、かわいい、かっこいい 多くの人がこんなものは絶対的に決まっていると思っているのかもしれない。 だけど、こんな基準は本当に短期的なもので、移ろいやすいものだ。 よく言う例が平安美人。今の美人の基準とはかけ離れている。 少しだけ脱線すると、多くのものの良し悪しなんか好みでしかない。 僕は可愛いと思っても、他の人は可愛いと思わないことなんかよくあること。 逆に少し基準がずれている方が幸せなものだ。 だって皆が欲しくないから手に入れやすいものが、自分にとっては最上の価値

          マッチョじゃなくても、ガリガリでもいいんじゃない

          目の前にパンがあるとして、なぜ谷底のパンを取りに行く必要があるのか?

          よくリスクを取るんだ!リスクを取らないと成功できない! そういう言葉をよく聞く。 基本的にそれは正しいと思っているが だけど、逆にすでに成功しているのに、リスクを取る必要ってあるんだろうか? パンをすでに持っているのに、なんで危険を犯してパンを取りに谷底にいかないといけないんだろうか? こういうとき大事なのが、自分が持っているもの、自分が欲しいものを考えてみることだと思う 年収1000万あったら、幸せになれるのに、リスクを冒さないといけない。 ちょっと考えてみよう。年

          目の前にパンがあるとして、なぜ谷底のパンを取りに行く必要があるのか?

          挑戦するために必要なもの

          よくとは言わないけど、たまにこういう人がいる。 地球のために仕事がしたい、世の中のためになることがしたい、未来の子供のために明るい国をつくりたい。 私はこういう言葉が大好きだ。 無愛想に見えて、高潔な思いを人一倍持っているタイプだと思う。 だけど、一方でこうも思う。 今日のご飯に困る人に、未来の問題を解決はできないと。 つまり人間は、今日のご飯を食べられることが確定して、初めて、それを明日に残そうかどうしようか、明日何食べようかということが考えられる。 排気ガスを減らそ

          挑戦するために必要なもの