1989年。平成が始まった年㉜あれから30年・・・

坪井とまともに対峙できずに終わった私のうつつは、T紡績に戻るでもなし、実家に留まることとなった。会社の課長様から「いつ戻るんだ」と電話が鳴ったところで、母親の体調不良を理由に「しばらく戻らない」。それで済むかというと、就職時に世話した?Hという出張員を実家に派遣。要は「与太こいてんじゃあねーよ」。でもって、そのHは、母親の腰を按摩したっけ・・・結果、「数日待つからどうするか、返事しろ」とすごんで帰った。

実のところ、7月にG民商が、夢を捨てない私に、業を煮やす格好で、左翼全体の?利益を取る形で、N福祉大があるA県の商連に私を紹介することとなった。それで、局長のSさんに会いに行った。その時言われたことが、

「探してみます」

この言葉を、当てにすることを余儀なくされた。

確かに、「学資稼ぎ」は破綻していた。話が違うレベルの低賃金、バイクの維持費etc、これらの理由で、貯金はままならなかったから。もっとも、T紡績から気持ちが離れていたので、最悪の場合は?いろんな意味でやり直し、を余儀なくされた。職長様に睨まれてる者が「戻って」もねぇ・・・

結局、Hの居宅に出向いて、「もう一か月待ってくれ」てなことを言ったが、「そんなにまてん、辞めてくれ」となり、T紡績はめでたく?退職の運びとなった。その「退職」から2日後には、会社から実家に郵便が来て、それには退職届のテンプレートが同封されていた。送り返せ、と。冷淡さがにじむ会社だった。すぐに返送したけど。無論、民商の斡旋を受ける、などとは言わなかった。

大学でんでん、が頭になかったはずはなかった。やはり文筆稼業でんでん志すなら、進学は東京の大学のほうがいいに決まっていた。入試が容易いともっぱらだった日大文理の通信でいいから・・・と思った。学歴と勉強できる環境が欲しかった。実際のところは、文筆業でんでんに、あまりに不利なN福祉大への進学は、「ここじゃなければ嫌だ」という程ではなかった、もともと、「入れればどこでもよかった」のだから。ただ、一度心を殺された者は、夢追うしか、生きる望みがなかった。

これらを破壊したのが、坪井令和の偽善と与太だった。愚直さが災いした。与太者に真心で応えようとしたことは、愚の骨頂だが、誑かされていれば、仕方のないことではあった。この、さもやさしげだった与太者への誠意でんでんが、ノダ氏らに対して言った、「N福祉大に行きたい」でんでんだった。

また、一時でも「足抜け許さん」ゆえの奸計だったなら、あまりに与太者は愚かだった。結果として、左翼全体に迷惑をかけさせたし、何より、誑かした私の終生の恨みを買うこととなったのだから。学資稼いで、行ける大学行って、また左翼に戻ったほうが「還元」できたというものだが・・・金がなくて、合格通知を棒に振ったことを、与太者はわかっていなかったのだろう。もっとも、気だけ持たせて、わざと合格通知を棒に振らせた坪井令和なので<そう取られて仕方ない>、単に与太者よろしく邪悪で愚かなだけだったのかも。


とまれうつつは、A商連のサカモト氏より、「面談したい」と連絡があったので、母親の反対を振り切って、名古屋に行くこととなった。8月の終わりの話だった。その間、坪井からは何も言ってこなかった。

現在は無名の、いちネット作家に過ぎませんが、 書き続けるためにどうか ご支援をどうか よろしくお願いいたします。 a.kimitoki2023@gmail.com