見出し画像

乃木坂30th 特典映像・5期生個人PV 全作レビュー (50音順)


五百城茉央『やる気!元気!ぼく、五百城。』 (監督:今原電気)

本作30thに収録されている個人PVの中で最も秀作と言える。こういった"チャレンジ系"の企画は個人PVに限らずともアイドルコンテンツの常套手段であり、既に飽和状態であるがゆえに真正面から取り組もうとすればするほど凡庸に映りがちなのだが、今作はそのチャレンジ自体を企画の中心として据えるわけではなく(つまり46のチャレンジのうちどれだけ成功できるかどうかは主題とされておらず)それによって引き出される リアクションの豊さ / チャーミングさ こそが彼女の魅力であることを視聴者に提示する。この点において個人PVを制作することの意義とされるプロモーション・ビデオとしての役割を十分に果たしていると言える。確かに、プロモーション・ビデオに全振りしているがゆえに作品としての(はたまた五百城茉央というアイドル像への)裏切りこそ無いが、小気味良い音楽とともにスムーズに編集された映像はとても整然としており退屈を感じる瞬間がなかった。乃木坂の映像作品だと『マシンガンレイン』や『絶望の一秒前』のMVも手がけた今原監督の手腕が、この度もいちアイドルの個性を見事に拾い上げた、個人PVとしてお手本のような一本である。


池田瑛紗『ほっとけない』(監督:カ〜ル、ルイス)

元Cymbalsの矢野博康が手がけたトライバル・ハウスの上で池田瑛紗が日常からパーティー(つまり非日常空間)へとトリップしていくというシナリオは、彼女が提示するアイドル像への当てがきとして納得がいく。つまり、半ば強引な解釈ではあるが、彼女が道端でたまたま出くわした狸の置物、ずぶ濡れの女性、自転車、地蔵、勇者…に対して「ほっとけない」と対峙することを厭わず、それら全てを彼女の脳内空想である"ほっとけ!Night TOKYO"へと招致するという筋書きは、さながら彼女が日頃綴るブログにおける質問コーナーに近いものを感じた。彼女は日頃、質問者に対して寄り添うような姿勢こそ見せるが決して自分のスタンスを崩そうとしない。"めろの"という第二人格を用意してまで徹底的に彼女の居場所を守っている。彼女が"池田瑛紗"というアイドル像に自覚的であるが故にそれを演じることを(少なくともブログの上では)決してやめない姿勢こそが、今日において彼女に勝機を寄せ付けている。もし我々が道端の段ボールの中の狸や地蔵でしかないとすれば、その段ボールを非日常空間だと錯覚させてくれるような救いを日々求め続けている。彼女はその希求に応え、靄のかかったクラブ空間、すなわち「てれぱんぶろぐ」を用意してくれた。しかし、このパーティーのDJは他の誰でもなく彼女であることを忘れてはならない。もちろん、パーティーにはいつか必ず終わりが来ることも。


一ノ瀬美空『みくのしわざ』(監督:平岡咲)

こういった、映像技術の他に特に何も言うことが思い浮かばない作品へのレビューが一番難しい。前半はストップモーション・ムービーに一貫し、後半から実写物として動き始めるという転換には発想性があるが(あと、枝豆の殻の中に横になる画は非常にアイコニックである)一ノ瀬美空の少女性に全て任せっきりの設定は、プロモーション・ビデオとして彼女の個性や魅力を提示できているというより、彼女のプロポーション・姿・かたちをそのまま切り取っただけに映る。つまりアイドルの個性よりも映像技術が先行している時点で個人PVとしてはあまり評価できない。視聴していて、ディスニーランドのピノキオや白雪姫のアトラクションに乗っている時と近いものを感じた。ファンタジーランドの限られた狭い敷地の中で折り畳むように敷かれたレールの上を横軸で移動している気分以外のものを感じないのだ。人気のアトラクションには上下の移動や突然の加速、或いはシューティングゲームといった、アトラクションとして楽しむ上で追加の要素(縦軸)が用意されている。例えば「モンスターズインク"ライド&ゴーシーク!"」には、後のリニューアルでフラッシュライトを照らすとモンスターが反応するといった要素が追加された。多くの個人PVがこの作品のような様相を出ないことを前提として言うが、この作品も同じく過去に量産された凡作の再生産にほかならない。


井上和『乃木坂OGイノウエ』(監督:林希)

アイドルになってまだ半年ばかりであるにも関わらず既に各所で堂々たるパフォーマンスや振る舞いを見せ、早くも"完成"の二文字をチラつかせるアイドル・井上和がまだ手をつけていないもの、それはお笑いであるという見立ては間違っていない。かつて白石麻衣がバラエティ番組で羽目を外せば外すほどギャップとして効果的に作用していたように、井上和が困れば困るほど、迷えば迷うほど、その姿はとても新鮮に映る。そこに全てを賭けた作品である。なので井上和の大喜利の回答がいまいち面白く無いという指摘は無粋であるし、例え面白い回答を出したからといってこの作品のクオリティ自体に大きな変化はないだろう。これは『バンドエイド剥がすような別れ方』の MVに対しても言えることだが、林監督は与田祐希や西野七瀬といった既に個性を確立しているアイドルに対しては必要最低限の当て書きができるものの、"これから"のアイドルのこれからを描くにはやはり筆致が弱いように感じる。イメージ・ビデオを撮ることには長けているが、プロモーション・ビデオに関してはいまひとつ撮りきれていない感が拭えない。大喜利パートに関しては、単純にその尺の短さと展開の広がらなさに満足できなかった。グループに加入したばかりであるにも関わらず卒業後という未来を感じさせてしまう、そしてそれを脚本に採用させてしまう、彼女から漂う気品の正体を真正面から解剖することを諦め、バラエティへと逃げたことは非常に正しい決断であるのかもしれないが、やはり作品として一歩先を見たかった。


岡本姫奈『即興料理!!頼むぞ!!副料理長!!』(監督:高野寛地)

五百城茉央の個人PVと同じくこちらも"チャレンジ系"の作品である。しかしインド料理をヒンドゥー語のレシピで作らなければいけないという五百城の時とは比べ物にならないほどの難易度の高さは、視聴者の「成功するかどうか」という興味を早々にして奪う。ともなれば、岡本姫奈が戸惑う姿にコンテンツとしての旨味が全振りされてしまうわけだが(それが良いか悪いかは置いといて)。つまり、"バナナマンのいない『乃木坂工事中』の料理回"あるいは"乱一世のいない『噂の!東京マガジン』"といえば共感していただけるだろうか(あれ?いない方が良いのでは?)。とはいえコンテンツとして成立しきっていない。BS深夜のアイドル番組でもこんな映像は流れない。今作への評価は圧倒的な作家の力量不足としか言いようがない。初めて厨房に立つ副料理長がなんとなく美味しい料理を完成させてしまうという光景が今日の5期生のポテンシャルを映しているようにも取れるが、それは今作への行き過ぎた擁護であろう。


小川彩『初恋』(監督:岡田あかり)

ひとりの少女が佇む姿に対し夢と現実の"あわい"を見出し、それこそがアイドルのアイデンティティになり得ることを初期の齋藤飛鳥や遠藤さくらの個人PVが証明したように、今作では小川彩を前にして彼女のアイドル像を模索するよりもまず先に彼女が"少女"であるということを存分に描くことを選択している。これはフェティッシュでもあるが極めて正しい。この時点で小川彩は間違いなくキャラクター争奪戦に勝っていると言える。暦という体系を通して初めての恋に直面する少女の心のうごめきを幻想的に映し出すという手法、その効果は秋元康が『二人セゾン』において証明済みであり、今作でも視聴者を魔法へと導くことに成功している。ここに叙情的な快楽がある。また「人は1日に35000回の選択をするらしい。チョコかラムネか。パンかごはんか。右か左か。選んだ道と選ばなかった道。」というセリフはそのままアイドルの人生へと線を結ぶことができるし、アイドルの門戸を叩いたばかりの彼女に対してより強く切実に響く。その選択の先に「みんなが集まり睦び合う」共同体があるならば、彼女の乃木坂に対する初恋はきっと成就するのだろう。これは余談だが、オーケストラの音楽がだんだんと高揚していく展開には、山戸結希監督『離ればなれの花々へ(オムニバス映画『21世紀の女の子』の中の一本)』を鑑賞した時に似た胎動を感じた。


奥田いろは『わたしが奥田いろはです』(監督:藤野大作)

こういったモキュメンタリー作品において絶対に欠かしてはいけないのは、現実とフィクションが逆転するときの圧倒的な裏切りであり、その裏切りをまた逆転するかのような圧倒的な手腕である。つまり「奥田いろはがアルパカに似ている」というただ一点のみで突っ走ろうとする姿勢にはやはり厳しいものを感じる。脚本にも機敏さが無い。しまいにはイメージビデオで余った尺を埋める有り様。「わたしが奥田いろはです」を提示するための個人PVにおいて「アルパカに似ている」以外の感想が出てこないのと、いまの彼女の境遇を考えたときに、果たしてこのビデオで笑っていいものなのかと複雑な気持ちになってしまった。作り手にセンスがない。の一言に尽きる。


川﨑桜『Sakura Saku』(監督:まつおゆきこ)

唯一"歌モノ"に振り切った今作は、個人PVを見てきた者ならお馴染み・太陽コンピューターによる4つ打ちのビートの上を、彼女に当て書きされた歌詞が転がる。日頃バラエティ番組を見ているとなんとなく彼女から漂う"すん"とした態度、胆力を見事に描いている点で、プロモーション・ビデオとして成功ではないだろうか。彼女が纏うピンクのドレスや大きな棒付きキャンディに対してなんの違和感も感じない。この時点で彼女が提示するアイドル像(これに自覚的であるかどうかはわからないが)に我々が侵食できないことを痛感させられる。「さくらの咲く季節に生まれて いつの間にか坂道を歩いている」というリリックには恐れ慄くしかない。ラップに関しても技巧としてどうこうよりもまず、演説のように強く届く。終盤に差し掛かり突然リズムを倍で取ってラップをし始めた時は、思わずエナジードリンクを飲んでからブログを書くという彼女の姿が重なった。『ごめんね Fingers crossed』の遠藤さくらよろしく、ブーストこそがアイドルの本領である。しかしまた元のテンポに戻ると彼女は何事もなかったように佇む。リアルがいったいどこにあるのか掴めない、そんなアイドルはついつい眺めたくなってしまうものである。


菅原咲月『# 激甘な菅原咲月見てやるぞ』(監督:月田茂)

白石麻衣の個人PV『マジっ子まいやん』のような作品を真正面から喜ぶことのできるファンに対しては完璧な作品である。ともいえない。その楽しみ方をするには中年男性の映る時間が単純にノイズである。しかも結局はこの中年男性の妄想でしかなかったという結末が視聴者に対して恐怖を与えるほどの威力があるわけでもない。前半のドラマパートが確実に頓挫している。「アイドルはね、ファンをきちんと癒さなきゃいけない」という言葉を受けて自らの行いを反省できるファンは少ない。それよりも最も問題なのが、どのメンバーでも成立するような設定の個人PVがなぜ菅原咲月に与えられてしまったのかということである。しかしこれを一概に作家のせいにするのは難しい。つまり、遠く(遠景)から眺めたときにその姿・かたちからすぐに物語を想起できるアイドルと、そうでなく近くに寄って見て「接写」しなければ物語を見出すことが困難なアイドルに二分化されるとして、おそらく彼女は後者であるような気がする、というのを今作や『バンドエイドを剥がすような別れ方』のMVから感じた。生駒里奈と白石麻衣、大園桃子と久保史緒里、遠藤さくらと賀喜遥香…決してどちらが悪いというわけではないが、「作品」を編むとなったときになぜか差が如実に出てしまう。特に後半の歌パートに関しては「接写」の域を出ない。


冨里奈央『(タイトルなし)』(監督:濵田未乘)

端的に、クーラーボックスから大量のガリガリ君を取り出したところが今作のピークだった。ジュースを飲む音〜スナック菓子の袋の音〜咀嚼する音〜ドライヤーの音…といったASMR要素、カメラにスナックを見せるときに手のひらを添えるYouTuber仕草、さらにはハンディ扇風機といった要素が「5期生」という世代を強く感じさせる。こちらに関しても、どのメンバーでも撮れそうな設定であることからプロモーション・ビデオとしての役割、その意義を感じ取ることができなかった。彼女の笑顔に甘え切った作品である。


中西アルノ『Future Days』(監督:佐藤竜憲)

今作における"黒い箱(カメラ)"には、黒沢清監督『Actually…』のMVにおける"古いスタジオ"のようなものを感じる。記録とは過去のことである。つまり「もしこの時間をこのヘンテコな箱で記録できたとしても、あなた自身が消失してしまうなら私は満足いくことはないと思う。」「記録を目視することしかできないってことは、私にとって経験値が積み重ならないってことなの。そんなのつまんないよ」というセリフが指すのは手で触れることのできる現実こそが何よりも重要であるということであり、夢を見た犬の「いつも通りあなた達と一緒にいるだけなのに、すごく幸せに感じるんです。圧倒的なリアリティでした。そして目が覚めた瞬間にあなた達がいなくなってしまうのではと怖くなったのです。」というセリフはグループのかつての映像にノスタルジーを感じ、ふと現実の問題に直面したときに陰鬱となってしまうファンの姿と重なる。そしてついには《理想が邪魔して真実を見失》ってしまうのだ。このような物語をどうしても付与されてしまう中西アルノに宿るアイコン性はともかく、彼女の日々の営み / ひいてはアイドルを見つめるわたしたちの姿にしっかりと呼応するような脚本を下ろした今監督の鋭さは評価したい。最後に中西アルノは「私たちには好奇心がある」と口にして幕を閉じる。『Actually…』において齋藤飛鳥と山下美月が最後に溢したのは諦念であったはずだが…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?