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乃木坂46 11th YEAR BIRTHDAY LIVE DAY2 〜5期生ライブ〜 短評

「これは乃木坂ではない」

どうだろう。ステージには見たことのない光景が広がっている。感じたことのない空気が漂っている。異様な湿度。しかし息苦しくはない。むしろなんだか妙に懐かしさがある。5期生たちは、かつて先輩たちが死に物狂いで築き上げた盤石たる国家に居住しながら、そこに所蔵された郷土資料を指でなぞり、当時を経験した生き残りたち(=語り部)の話に真剣に耳を傾けながら、さも「わかったかのように」振る舞うしかない。あまりに年が離れた兄弟たち、同じ国家における勝利を勝ち取った「友」として、1期生と5期生は無理矢理にでも括られる。かつて存在した英雄たちの偉大さ、歴史の悲痛さ、そのコンテクストの複雑さを一から十まですべて把握するのは10年目の新期生にとってあまりに無理強いであり、そしておそらく最優先事項ではないだろう。乃木坂というグループの歴史を楽曲を通して振り返るというバースデーライブの題目のもとに、しかしグループの本懐はもはや楽曲を通してというよりもメンバー同士のコミュニケーションによって醸成されていることは、ドキュメンタリーや普段のブログ・バラエティー番組を見ていても明白であろう。とはいえグループがステージを主戦場としている限り、乃木坂におけるライブ、特にバースデーライブは、メンバーがグループの歴史と向き合い、乃木坂としての信心を問われる、ある種のコロッセオのような場所として今も顕在する。グループ初期段階では一年間の成長具合を見せる発表会のような場所だったバースデーライブが、今では乃木坂の歴史と向き合い、「果たして今のわたしたちはその器に見合っているのか」と、かつての英雄たち(=先輩メンバー)を指標に据え、現在地点を確認する場所になった。だが、果たしてそんなに昔が偉大なのか?と思わなくはない。かつて存在していたメンバーたちの姿を再現しようとするあまり、目の前に広がる今のメンバーたちの瑞々しさ、即興性、生の胎動を見逃すのはあまりに惜しい。例えば、岡本姫奈がセンターを務めた『Sing Out!』がなぜあんなにも素晴らしかったのか。当楽曲のオリジナルセンターである齋藤飛鳥をエースという「記号」として捉え、ただただ同じように人気メンバーをセンターとして選ぶとしたら彼女に白羽の矢が立つことはなかったはずだ。しかし、齋藤飛鳥のまるで0.01秒遅れているようにみえる / しかしそれがリヴァーブ(ゆらぎ)としてむしろ良い味として作用する独特なダンスに真正面から立ち向かうのではなく(井上和が幕間VTRで齋藤飛鳥のダンスを何度も映像を見直して研究しているけどなかなか再現できないと口にしていたがそれもそのはず。彼女のダンスは本当に異質なのである)、齋藤飛鳥の身体性を根拠にして同じくグループにおいては異質とされる岡本姫奈のバレエダンスを肯定してみせた。グループの重要な楽曲に対して新解釈を提示することに成功したのである。

端的に、5期生の強さは「歌」にある。今回、ファンの間でも賛否両論の巻き起こった『新・乃木坂スター誕生』コーナーでは、奥田いろは→中西アルノ→井上和の順に、Mrs. GREEN APPLE、宇多田ヒカル、AIといった突き抜けたボーカリゼーションが必要とされるJ-POPのナンバーをカバーしていった。例えば、中学生でギターを手にし軽音楽部に入部した少女がたまたま北野日奈子に出会い、自身の音楽表現を「歌」から「ダンス」に置き換えるように乃木坂46に入った。と思われた奥田いろはがまた再び「歌」を武器にして乃木坂のステージに一人で立った。中西アルノの「かつてない歌声」とは『First Love』の繊細なボーカリゼーションと『Actually…』の大サビ前の咆哮のその両方にあると証明した。これは『スタ誕』という番組の一つの成果である。まだ表舞台に立つ機会の少ない5期生にとって『スタ誕』こそがパフォーマンスのスキルアップの場所として機能していたことはこの一年の活動からして明白である。そしてなによりこの『スタ誕』コーナーを通して、5期生にとってもはや乃木坂の楽曲までもが「カバー」の範疇であるという事実を突きつけられた。5期生にとってあまりに距離のある1期生時代の楽曲を、精一杯愛を込めて「カバー」するのだ。この一年間、ありとあらゆる歌手の歌声を研究しながら、その特性と向き合い、時に挫折しながら5期生は自分自身の歌声を獲得していった。生田絵梨花の屈強なボーカルから西野七瀬の「かげり」をひそめた繊細な歌声まで、それらを模倣するのではなく、自身の歌唱における「記名性」を獲得することで、オリジナルの放つ感性へと対峙するのだ。むしろそれこそが理想的な楽曲継承のようにも思える。

乃木坂1期生の選抜メンバーの絶対的なアイコン性。しかしそんな選抜メンバーにはないダンスの熱量がここにはあると、アンダーライブに注目が集まった時代があった。だがどうだろう、今日の乃木坂のダンスパフォーマンス力に関して言えば、選抜 / アンダーに特に大きな差があるわけではなく、むしろアンダーに選抜を凌駕するようなパフォーマンスの熱量を見出すには限界が生じているようにも感じる。もちろんそれはアンダーで優れたパフォーマンスを見せたメンバーがしっかりと選抜にフックアップされる体制が整ったからでもある。幕間VTRで井上和は「5期生はパラメーターで表した時に、なにかひとつズドンと飛び抜けてるような子が多い」「この一年で自分の色を見つけた子が多い」と自己評価していた。本来選抜メンバーに必要なのはこの「飛び抜けたなにか」であり、最近のグループの選抜に(特に三列目において)見られる、横や前に並ぶメンバーの調整のような保守的な采配を打破してくれる可能性がある。32ndシングルのフォーメーションを見て、なおさら納得してしまう。今はもう「あの頃」とはあまりに姿を変えてしまった乃木坂46に加わった5期生たちの自分勝手な乃木坂解釈が皮肉にも「あの頃」の絶対性を体現してしまうのだとしたら、それは現体制にとっての脅威でもあり、しかし紛れもなく可能性でしかないのだ。そんなアンヴィヴァレンスな運動体から今後も目が離せない。


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