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ねこすく ―ねこがきみを救う― 6話

決断

 
 ここ数ヶ月の自身の行動について、わたしは大いに反省の弁を述べねばらない。とても重大なことを、わたしともあろうものがすっかり忘れていたのだ。それは人間というものは例外なく愚かな生き物だということだ。
 その習性は光に群れる蛾に等しい。やさしもの、ここちよいもの、やわらかいものにふらふらと何の思慮もなく近づき、こわいもの、不快なもの、固いものには目もくれない。事物の表層だけで判断し、その深奥を見ようともしない。
 わたしは人間にかまいすぎていた、優しくしすぎていたのだ。はんなが動画だとかほざくのもその一端であったのだろう。結果、彼らはわたしのやさしさに、むやみやたらとすがるようになってしまった。
 重要なのはバランスである。すいとあまいのバランスを絶妙にとってやらなければ、つけあがりもし、ふくれたりもする。わたしはここにきて猫本来の習性をとりもどそうとした。すなわち、人間など相手にせず、孤高に生きるということである。

家出


 家を出てもう数日も帰っていない。わたしはひと目を盗んで電車にのり、少しはなれた場所に来ていた。少しというのは人間にとっての表現で、われわれからすれば別天地といってもいいほどの距離だろう。
 人間に忠誠をつくすのは犬の役割であり、我々では断じてない。たいていの人間というものは我々の本質を見ていない。犬も猫も鼠も、おなじくペットというくくりでひとつにしたがるが、人間の思い描くペットと、本来の我々はおよそかけ離れている。その差異に失望してペットを捨て、殺すのが人間なら、ただ袂をわかったわたしはまだ良心的である。我々は自由と豊かさの両方を求めたりはしない。これからのわたしは冷たい雨に打たれ、空腹に腹をうならせ、臭い泥をかぶりながら踊ろうと思う。
 降り立った街ははんなの住居よりだいぶ都会だった。駅からすぐ近くの高層マンションの駐車場脇に、わたしの今の仮住まいはある。深夜、わたしは車の屋根に立って空を見上げていた。人間がその威勢を誇ったようなビルのぎらついた光が、うざったく空を侵していた。
 都心だろうが田舎だろうが、空はどこでも同じである。人間のいわゆる富裕者たちはこういう高い場所に住みたがるらしいが、それは空を支配したいゆえか。かつての傲慢で尊大な権力者たちとその心根は同じようなものだろう。他者を見下さないと気がすまない。猫にはそもそも富裕とか貧困という概念はない。人間は金をたくさん持ちたがるが、猫がエサをたくさんもっていても腐らせるだけである。わたしは他者を見下すのも見上げるのにもなれていなかった。

同胞のにおいと車


 わたしはひげを揺らした。秋風の運ぶこの慣れたマーキングのかおりは、同胞が近くにいることを示していた。
 まだ新鮮な臭いが付着した赤くのっぺりと広がるこの巨体は、夜陰の淡い月明かりにも鏡のような光沢を放っていた。足があるべきところに円形状の物体があり、これは移動時に高速回転するようである。
 これが車という機械仕掛けの乗り物だということは当然わかっていた。が、同胞の大半はそれを理解できない。ただ、同胞が車の周囲に自分の臭いをつけているのは、ここが自分たちの領域であるという明確な意思表示のためだった。
 わたしは胸から前足、肉球にかけてゆっくりと力をこめた。目をとじ、息を細く吸い、吐くと同時に、肉球の先から力を押し出すイメージを呼吸に重ねた。自分の腕が伸びていき、どこまでも届きそうな感覚とともに、やがて爪の切っ先が淡い光を放った。赤い車体に三本の白い線がくっきりと刻まれた。
 爪とぎというのはわれわれの習慣ではあるが、研ぎ石はなんでもいいというわけではない。固さと衝撃をよく吸収するやわらかさを絶妙なバランスで兼ね備えた素材でなければならないが、その点でこの車というものはかなりよい素材だった。
 この同胞が車の周囲にいる理由を知るには、彼を見舞った悲劇について知る必要がある。

車に轢かれた猫


 時間はすこしさかのぼり、夕刻、わたしが慣れない街中を徘徊していると、道路の向かいに一匹の猫が立ち往生していた。
 下り方面は帰宅ラッシュで混雑していた。その理由は交通量だけでなく、この付近が*のように六本の道が交錯しているためだったが、その長い信号待ちをしている車の列が、とある場所でぐにゃりと不自然に弧を描いて、何かを避けているような動きをしていた。
 わたしの故郷でも似たような光景があった。もっともこんな街中ではなく、田畑を横断するようなアスファルト舗装もない道ではあるが。
 それは数日の間も放置されれば自然と消えていくこともある。近所のばあさんがナイロン袋片手に、おがくずのようなものをぱらぱらとかけて、 さっさとほうきとちりとりで片付けてしまうこともある。ちょうど秋ごろに多く見られる光景である。まだ幼いもの、あるいは年老いたものは運動能力も衰えているので、時に猛スピードで走る車を避けられない。
 人間が本質的にわれらの死になど無関心なのは、この放置された同胞だったものからもあきらかである。それでも同胞を好きだとかかわいいとか大事とか平気でほざく人間どもを、わたしは厚顔無恥とさげずむ。そもそも彼らにはわれわれの誇りと尊厳を理解できていない。
 その猫は車道の真ん中に横たわる猫を、歩道の端からずっと見ていた。体の模様や年恰好などから、二匹は親子だろう。彼は車の隙をぬって、親のもとへ駆け寄る機をうかがっていた。
 数分ほどしてようやく親猫の遺体に行き着いた。損傷はひどく、まるで血溜まりにおぼれるよう親猫は寝そべっていた。子猫はまず鼻を近づけた。血の臭いに思わず顔をそむけたが、何度も臭いをかいだせいで、その鼻には滴るほど血が付着していた。そして高く、か細い声で鳴いた。決して物言わなくなった静かな親とは対照的だった。
 子猫はやがて首をあげ振り返った。そして親を轢き殺した車の消えていったほうを見て、鼻をくんくんと鳴らした。すでに車はなかったが、車体には確かに、親猫の血や体液が付着しているはずなので、その臭いを辿ろうとしているらしい。子猫は血に足をすべらせて転んだ。べちゃりという気持ちの悪い音は、通り過ぎる車の音に掻き消された。
 夕日と血の赤に染まった子猫は親の遺体のそばに、日が落ちるまでいた。やがて子猫は死という概念を理解するのだろう。かすかに鳴くことも、ぴくりとも動くこともなく、だんだんと冷たくなっていく親に寄り添うことの無意味さをさとり、一人生きていく決意をする、そのはずだった。

親のかたき


 その後子猫は親の臭いをたどり、こうして仇である車のそばに、生前と違わずこうしている。車は近くのスタンドで見つかり、そのまま子猫は持ち主の家まで跡を追った。わたしには親の生前、このように寄り添って生きてきた親子の姿が目に浮かんだ。彼はこの車を仇ではなく、親として認識しているようだった。
 わたしはこの子猫を不細工と名づけた。瞳は大きく丸いが、つぶれたように大きい鼻と、裂けたような大きな口、左右の長さがばらばらなひげが、とても人間に愛されるような風貌ではなかったからだ。
 容姿が醜いものが虐げられるのは人間も猫もいっしょである。特に人間の女は、顔や体の形やバランスに異常なほど固執することもあるようだ。
 そういえば、はんなが以前に言っていたことがある。上司の昔の写真は、今とは別人のようだったと。腫れたような一重まぶた、丸い顔、つぶれたように上を向いた鼻穴、寒くもないのに赤くなる頬、だから整形手術をしたという噂があるとかなんとか。
 当時のわたしにはなんの興味もない話だった。しかしこの不細工なやつも、もし猫の整形手術を受ければ、人間に愛されるような飼い猫になれるのかもしれない。これもどうでもいい話だった。そもそも飼い猫になるのが本当によいのかさえもわからないのだ。
 車のバンパーからは確かに、血のにおいがかすかにした。洗剤のにおいもしたので、轢いた後にスタンドであわてて洗車したということだろうか。
 このまま不細工が親のにおいのする車にくっついたまま、結果どうなろうとわたしには関係なかった。駐車場から発進しようとする車に轢かれ、親と同じ運命をたどることになっても、である。ただ、良好の爪とぎ場を放棄するのは少々惜しく、加えて同胞を殺してぬけぬけと生きている人間がどんな偽善者面をしているのか見たくもあった。わたしは車のボンネットで尿意をこらえながら、二度びマンションに灯る光を苦々しく見上げた。

車の所有者


 車の所有者を調べることはわたしにとっては造作もないことだった。ひととおりの調査を終え、わたしと不細工は車の真下に身を潜めていた。すると、時間通りに持ち主の人間たちがやってきた。
 どうやら男と女の二人組みらしい。二人ともスーツ姿なので、もう昼過ぎだがこれから出社といったところだろうか。この数日間、二人は同じ時間に家を出ていた。
 わたしは木の枝を反対のほうに投げた。二人がその音に気をとられた一瞬の隙に、車の後部座席にもぐりこんだ。
 移動中の二人の会話から、その素性はおおむね把握できた。男は経営者で、そこそこ規模の大きい会社を都心に構えているらしい。女はその部下である。二人は会社のだれだれが使えないだとか、やる気がないだとか、そんな話を始終していた。また、男のほうは動物がきらいで、猫を轢いたこの車が気持ち悪いので、近々下取りに出すようなことを言っていた。女のほうはそのとき、何か返事に窮するように言いよどんでいたので、男と違い、猫を轢いたことを少しは気にしているようだった。
 車は会社の地下駐車場に入った。二人が車を降りて、しばらく足音が消えるのを待ってから、車のロックをはずして外に出た。男女の後を社内まで追いたかったが、さすがに人数の多さとセキリュティの厳重さに断念し、警備員の目をかいくぐって地上のほうに出た。

都会のビル群


 わたしははじめて、都心のビル街を目の当たりにすることとなった。人が居住するために構築された町とはまた異質の、経済が流動するための場所、はんなにとっての牢獄である。 
 灰色の空に伸びる無数のビル群には、さすがのわたしも圧倒されずにはいられなかった。このひとつひとつに数百数千の、同胞を平気で殺せる人間が詰めているということを想像するだけで反吐が出そうだった。彼らは人間社会を維持するためのちいさな歯車となっているのだが、そもそもそんな労働にどれほどの価値があるのか。
 個と集団の関係において、集団の目標や価値観が個と一致すれば、そこに所属する意味はあるだろう。しかし、もしそうでなければ、はんなのような悲劇となる。しかし、どうも彼女がレアケースではないようだ。わたしはこの街に巣食う灰色の人間どもに突きつけたい言葉があった。きさまらは個として誇りを持って日々生きているのか、と。わたしにはこの灰色の建築物が、人間の文明に埋もれた墓標のように見えてならなかった。

ほんとうの猫カフェ


「350円になります、えっと、アイスかホットか…」
 実に愚問である。猫舌という言葉をしらんのか。アイスに決まっている。
 わたしはオフィス街のオープンカフェで一息ついている。あらかじめ家を出るときに用意していた現金を首からさげていたので、それで支払った。ちなみにコーヒーは頭上に乗せて席まで運んだ。
 デザートはさっきコンビニで買った高級キャットフード缶である。コンビニの店員はキャットフードを買って満足げに去るわたしの堂々とたる姿にしばし視線を奪われていたようだ。缶のプルタブを爪にひっかけて開ける。持ち込み禁止のうえであるのは仕方がない。この店にはわたしの舌に合うメニューがなかった。
 これが本当の猫カフェだろう。どよめく周囲に我関せず、ため息をひとつ、コーヒーの香りを鼻腔にくぐらせた。都心の喧騒をこの手にもてあそぶような愉悦は確かに感じたが、実にむなしく、こっけいであった。

不細工の真意


 改めて考える。不細工は今も本当に車を親と認識しているのだろうか。我々は人間ほど死というものをむやみに悲しんだり、憤りもせず、素直に受け入れるのみだが、それが明日の糧に関われば話は別である。幼い不細工にとって庇護者であった親の死は、事故や飢え、凍死や外敵など、そのまま自身の死に直結するので、彼が親の死を本能的に認められないとすれば、それも道理かもしれなかった。
 しかし、わたしは別の可能性を考えてもいる。わたしが感じている冷静という薄皮に包まれた激情を、親子ゆえにわたし以上に熱く強く、抱いているとしたら。ひょっとしたら、車の持ち主の人間が親の仇だと気づき、復讐を模索しているのではないか。ただ、敵はあまりに巨大すぎた。人間を傷つければ保健所での処刑が決定的である。勘違いにしろ、復讐にしろ、彼の末路はこのままでは悲劇だろう。
 正直、人間の男女のほうへの興味はなかった。彼らは人間の中でも富裕者であり、能力的にも優れているそうだが、わたしからすれば親が死んでも懸命に一匹で生きている不細工のほうがよっぽど優秀だった。彼らはわたしの爪とぎの素材程度にしかならない狭量だった。

深夜


 深夜、電車は疲労しきったサラリーマンたちをめいっぱい押し込んで動き出した。わたしは帰宅のため電車に乗り、網棚の上であくびを噛み殺していた。さすがに多数のひと目につくので、身を隠すために新聞紙を上から羽織っていた。
 スーツ姿の人間男の大半は疲労に顔色を悪くしている。あとは飲酒後らしい赤ら顔や、足取りのおぼつかないのもいくらかいる。わたしは故郷で、田舎道に落ちていたまたたびを食してふらふらになった同胞のことを思い出した。
 携帯電話で怒鳴り声をあげている者がいた。しばらく叫び続けたと思うと、今度は泣いて謝りだした。どうやら恋愛関係のもつれらしかった。
 人間は自分の想いを誰かに伝えたいと願うのが一般的なのだろうか。わたしはそうは思わなかった。自分の薄汚れた心根など、誰にも届かず、この狭い胸の中で行き場を求めてさまよい、暴れていればよいと思っていた。
 満員電車の中には女もいた。やはり見慣れた紺色のスーツに身をつつんでいて、つり革をつかんだ手の甲に額をのせながら器用に眠っていた。メイクも落ちて、目の周りが赤くはれ上がっているようだった。ここ数日泣きはらしたという、本当にひどい顔をしていた。本当に。

ぬこかこ(ぬこの過去)

 物心がつく、という言葉がある。人間は生まれた直後からの記憶をすべて保有しているわけでなく、そのはじまりは生まれて数年後からが一般的である。
 わたしにも物心がつく瞬間というものがあった。わたしの最初の記憶は激痛と血の海からはじまった。横たわる親は目を閉じたまま、そばでずっとわたしの肉球を舐めていた。正確には、そこはかつて肉球があった箇所だった。意識を取り戻した当初、わたしはあまりの激痛に、鳴きさけぶことも出来なかった。舌の感触はしだいになくなっていった。肉球のあった場所に感じる親の息は、しだいにゆっくりになっていった。
 のちに確認した状況によると事実はこうである。われわれ親子は人間の運転する車に轢かれた。もたもたと道路の真ん中で立ち往生するわたしを親がかばい、致命傷を負った。わたしも前足を車のタイヤに踏まれて肉球の切断という瀕死の重傷を負った。
 親は息絶えるまでの短い時間、いや、わたしにとってはとても長かったが、それまでわたしの傷口を舐めてくれていた。
 ちょうど夕刻ごろのことである。車はいくらか通るが、われわれに目をとめるものはなく、みな眉をひそめながら避けるだけだった。

死を覚悟して


 わたしも全身の力が抜けていくようだった。体は鉛のようにずっしりと重く、このまま死ぬのかという思いがふと頭をよぎった。すると傷口にまたざらついた舌の感触がよみがえった。親はまだ生きていたのか、いや死してなお、まだその舌をうごかしていたのか。気がつくとわたしは一匹で夜の町を徘徊していた。地方の田園地帯であったので、明かりといえば小さい外灯と田畑の間にある家屋がぽつんぽつんと光る程度であった。
 足取りはおぼつかなかった。出血が多すぎたし、片足を失って歩くのもままならなかった。なくなった足を地面につけようとするたび、がくりと上体が沈むようになり、もう片方の前足を出すと、上体はまた浮き上がる。頭をひょこひょこと上下させて進むさまは、凄惨というよりはこっけいだろう。
 こんなみっともないさまで、いったいわたしはどこへ向かっているのか。あのまま死んだほうがましだったとさえ思えた。なぜわたしはこんなことを考えているのか、いや考えられるのか。ぼんやりと抱いていた死への恐怖が、人間のような自我を得ることによって、皮肉にも顕在化したようだった。
 前方、ぽたりと雫のように落ちた外灯の光につられるまま、ひょこひょこと進んでいた。その電信柱のたもとにふやけた段ボール箱がある。中には真っ白な毛並みをした、瞳のいろが左右違う子猫がいっぴきと、それを包む暖かそうな毛布、味の濃そうなミルク皿があった。子猫はかぼそい、いかにも人間の憐憫を引き出すような声で泣いて、いや鳴いていた。
「よしよし、やっと親の許可がでたからね、うちは農家だからしぶられたけど、なんとか」
 そして人間の少女が身をかがめながら、そう白猫に話しかけていた。

はんなとの出会い


 純真無垢な少女と美しい毛並みをした白猫の邂逅、それに光の外でたたずむ血でよごれた不細工なわたしは、実に対象的だった。
 わたしはずっと野良だった。それも当然であろう。いびつな顔かたち、つぶれたようにするどい目つきにふてぶてしい態度、長さが一本一本ちがうひげ、ごわごわした固い毛並み、泥土に汚れたような毛色、およそ人間が好むような愛嬌などなかった。
 わたしはそのとき、ちょうど白猫を抱えたおさないころのはんなと目があった。すぐにもこの場から立ち去りたかったが、そんな力は残っていなかった。
 一対の人猫に羨望にも似たものを抱いた後、なぜかこちらに近寄ってきたはんなを前にして、一気に敵意がこみ上げて来た。交差するその細い足が、いかにもわたしの腹を深く蹴り上げそうに見えた。わたしを抱き上げようする白く小さい手が、わたしの首を、背骨をぼきぼきと折るように見えた。
 はんなは抱いていた白猫の両脇をつかみ、わたしのほうへ差し出した。そのまま首をかしげながら、白猫をぶらぶらと揺らしていた。これはつまり、白猫を抱えたままわたしをつかまえようとしたが、思いのほか出来そうもないのでどうしよう、と困っているのである。やがて白猫はするりとはんなの手から離れた。そのまますこしおびえたように、段ボール箱の中に戻っていった。結局、わたしの体についた泥と血が、はんなの手を汚すことになった。
 はんなの家に連れられたわたしは両親の運転する車で動物病院に搬送された。手からの出血が少なかったのは、車から漏れた油が傷口に付着して止血の役割をしていたかららしい。親が息絶えた後、あのぬるぬるとした血溜まりで這っていたときだろうか。しかし傷口から雑菌がはいり、肉球の根元ごと切断することになった。
 治療後、痛々しく包帯の巻かれた前足を顔の前にかざした。肉球のないのに気付かすヒゲ先を撫でようとして空をかくと、ひやりとした風が頬をかすめた。

はんなの家にて


 その後しばらく、わたしははんなの家に滞在することになるのだが、慣れない人間との生活というものは当時のわたしにとっては苦痛だった。はんなは四六時中、ものめずらしそうにかまってきた。腹もすいてないのにえさを食わせようとしたり、眠いのにあちこちつれまわされたり、必要以上に包帯をかえたりなど、わたしにとっては迷惑このうえなかった。
 ―よくもそんなに偽善的なことができたものだ、わが親を殺したのと同じ人間のくせに。
  そんな思いが自身の中にこみ上げてきたとき、自分がいやに人間らしく感じられて、より不快となった。わたしは傷が癒えたらすぐ出ていこうと決めていた。
 ある日、はんながスケッチブックをもってわたしをモデルに、なにやら絵を描き始めた。それは飼い主をさがす張り紙をつくるためらしく、白猫をここで飼うため、律儀にわたしの飼い主をさがそうとしているのかと最初は思った。親からは猫を飼うのは一匹だけと、強く言われていたからだ。
 そうではなかった。はんなの描く猫は毛並みがまっしろで、瞳もくりりと大きかった。どうやらわたしを参考に白猫のほうを描いているらしい。つまり彼女はわたしのほうをひきとり、逆に白猫の飼い主を探しているようだった。
 もとより人間などに飼われるつもりもなかったが、気になるのはどうして、はんなは白猫ではなく、わたしを飼うつもりなのだろうか、ということだった。かたや美しく柔らかい毛並みをたずさえた、瞳の大きく、あどけない容姿をした誰からも愛されるような幼猫、かたや不細工、無愛想、肉球もない傷だらけの猫である。選択の結果はあきらかなはずだった。
 白猫は段ボールをいまだ住まいとし、はんなが定期的にエサを与えていた。この日、はんなは家から農作物を収める木箱をもってきて、中に新しい毛布をしき、ミルクを注いだ皿を置いた。今までの箱はいいかげん雨風でしなっていたので、かわりの仮住まいだった。
「ハクちゃんだいじょうぶだよ、すぐ向かえがくるから」
 はんなはいつかと同じようにひざをかかげめて、白猫(はんなはハクとこのころから呼んでいたが)にそう声をかけた。はんなか、別の誰かになるかはわからないが、飼い主がいつかやってくるということを言いたかったのだろう。ただ、その飼い主募集のポスターを家の庭にも貼っていたのが気にかかった。

はんなの家を出る


 ケガの具合もひととおり治ったころ、わたしは夜の闇にまぎれて人知れず家を出た。二度とこの家の敷居をくぐる気はなかった。
 自由の身に戻る前にひとつやることがあった。それはハクをはんなの家に連れて行くことである。わたしがいなくなったという事実の代わりにハクを置いておけば、はんなもわたしを飼うなど愚かなことを言わなくなるだろう。
 古びた外灯の切れかけた電球の瞬く光が照らしているのは、はんなが置いたハクの木箱だけではなかった。それをとりかこむ複数の野良猫は、鋭い目つきに低いうなりをあげながら、じりじりと箱に近づいていた。
 わたしはがくりと上体を崩し、その場に転んだ。つい足があったころの感覚で走ろうとしたためだったが、その音で野良どもがいっせいにこちらを向いた。

野良猫との闘い


 この前足ではまともに戦っても勝ち目はないだろう。ハクは箱のなかで震えていた。わたしはふうとひとつ息をついた。前足でとんと地面を蹴り、上体をぐいと持ちあげた。
 いわゆる二足歩行になったわたしは、四本足で這う野良どもを睥睨する形となった。彼らにはわたしは、急に大きくなったように見えたらしく、ひるむようにじりじりとあとずさった。わたしはそのままゆっくりと、ちょうど力士のように後ろ足の肉球をつけたまま、箱のほうへにじりよっていった。そして野良どものひるんだ隙に、ハクのえりくびを銜えて全速力で逃げ出した。野良たちは一瞬ぼうぜんとしていたが、すぐわれに返り追って来た。
 はんなの家の前まで来ると、敷地内へ逃げるようハクに言い、わたしはその場に踏みとどまった。この足でしかもハクを連れてでは、すぐに追いつかれるのは目に見えていた。野良どもはわたしのぶざまなさまに薄ら笑みさえ浮かべながら、悠然と歩み寄ってきていた。
 あとは死ぬまで戦い続けるのみである。恐怖はまるでなかった。われわれ親子を轢いた車に比べれば、大きさも速さも比べ物にならなかった。人間の手にかかるよりも、品性を失った同胞の手にかかるほうが幾分かましとさえ思えた。
 そのときだった。寝巻き姿のはんながほうきをふりまわしながら、野良たちの間に入っていったのは。力任せにふっているだけなので、機敏な猫には当たるはずもないが、威嚇には十分で、野良どもは人間があらわれたこともあり、闇の中に消えていった。
 わたしはぼうぜんとその様を見ていた。はんなもようやく野良どもがいなくなったのに気づき、わたしのほうを見て、何か驚いたように目を丸めていた。
 ―何なのだろう。あのすべてを見透かされたようで、それでいて何もわかっていないような、あの目は。

出戻り


 ハクは今回のようなことを防ぐため、そのままはんなの家に住まわせることになった。わたしもはんなに捕まった格好になったが、その後もなんとなく家を出来る機会を失していた。すっかり治ったはずの醜い前足に、むず痒い感触がまとわりつくのを、ぶるぶると払おうとしながら、しばらくはんなの家でだらだらとすごしていた。なぜ急にこうも腰が重くなったのか。気まぐれというものでもないのだが、明確に理由があるわけでもなかった。いや、明確にしたくなかった、というのが適当かもしれなかった。
 家に猫が二匹となったので、はんなの両親が約束をまもらない娘に苦言を呈した。ただ、家の物置に二匹分のエサやら道具やらがあったので、もともとはんなの様子をみかねて二匹とも飼ってやるつもりだったらしいが。

両親との約束


 はんなは両親にこう答えた。
「ハクちゃんは家で飼うんじゃなくて、ぬこが飼うんです。うちで飼うのはぬこだけです。約束はやぶってません」
 両親は子供の無邪気さゆえと微笑を浮かべたのだろう。ただ彼女にとってこれは詭弁でもなんでもなかった。そしてこれが、わたしが結果的にはんなの家にとどまることとなった理由だった。つまり家の中の飼い主探しのポスターは、わたしが新しい飼い主になるという予言だった。
  とある日の夜、どこかで野良猫の叫び声が聞こえた。発情期にメスを追いかけているのか、車にでも轢かれたのか。毛布に包まっているハクはごろごろと寝ぼけながら喉をならしていた。わたしはこうやって塀の上にいるのが大半で、ハクは電柱から持ってきた木箱と毛布が気に入ったようで、そこから離れなかった。
 塀といっても金持ちのお屋敷のように家の四方を囲んでいるわけではなく、入り口の左右にすこしブロックを積んだのがあるのと、あとは昔からの土壁がところどころに延びるだけである。人間の子供でも敷地内への出入りは、隙間だらけなので自由に出来る。
 その塀の上で、月を頭に抱きながら丸くなっていたわたしは、はんながねぼけまなこに外を歩いているのを見かけた。はんなはわたしをみつけると、寝巻きのそでをひらつかせながら目をこすった。
「ぬこ、ちゃんといるね、ハクちゃんを守ってるね、よし」
 はんなが寝ぼけているのはすぐわかった。野良猫の鳴き声はさらにけたたましく、何か暴れているような物音も聞こえてきた。

わたしが守ったものは


 わたしが守ったのはハクではない、ただ自分の誇りを意地らしく固辞しただけだ。か弱き同胞に手をあげるなど、人間同様の低劣さである。それが許せなかったということだ。それがハクを守るという意味を内包することは確かに事実だった。しかしそれは永遠ではなかった。ハクが自身に芽生えた誇りの萌芽を成長させれば、わたしの役目は終わる。それははんなにも同じことが言えた。
 なぜはんなは最初にハクではなくわたしのほうを飼おうとしたのか。なぜ、わたしたちが野良に襲われたとき、それを瞬時に察知して助けに来れたのか。彼女は意識してかどうかはわからないが、確かにわたしの誇りを尊重してくれた。はんなの言葉はときおり、わたしの中でばらばらに散っていた過去のすべてを、ぱっと目前に浮かび上がらせるようだった。
 すべての過去をこの肉球の上に。未来は片手ゆえわからない。

ハクとの別れ、そして


 ハクは生まれつき病弱で、年々体力がおとろえていった。はんながわたしと家族とで海にいったとき、岩場を歩いていたハクは、ちょうど岩と岩の間の潮がたまったところに落ちた。わたしが助けたころにはもう手遅れだった。ハクを失ったはんなの落ち込み様は尋常ではなく、しばらくは一日中わたしをぬいぐるみのように抱いて、学校や外出先にもわたしを連れて行くようになった。
 時を経て、大学を卒業し社会人として上京する直前、はんなはわたしをつれてハクの眠っている海に来ていた。住み慣れた故郷に別れをつげ、遠く離れなければならなくなった彼女は、この海で命を落としたハクに、どこか共感を抱いていた。自分がハクの眠っているこの海の藻屑となり、体が広大な海に四散するような感覚、心はここにおいたまま、体は見知らぬ都心に移らなければならない恐怖を、すこしでもぬぐいたかったようだった。
「ぬこ、一緒に来てくれる?」
 はんなは新調したてのビジネススーツに身をつつんでいた。髪をぎゅっとしばり、黒い革靴をはいていた。都心で行われた会社説明会から帰ったままの格好だった。
 彼女がわたしを連れて行こうとする理由は、見知らぬ土地での不安ゆえである。きっとそれはすぐに解決する。そして彼女が幸福を得たときが、彼女とわたしの別れのときである。わたしたちは苦難を共に出来るかもしれないが、幸福を共有することは、いつかできなくなるのだろう。
 はんながそれを理解したのかはもちろんわからなかった。はんなは髪留めのひもを解き、革靴を脱いだ。黒髪を潮風にばさりとなびかせながら、すそをまくり、ストッキングをやぶって素足を海に入れた。靴は砂浜の上で潮をかぶっていた。

退職届

 時間は少し、わたしの家出前にさかのぼる。 
「会社をやめたいっていったの、主任に」
 はんながわたしを撫でている。 背中から頭にかけて、 固くほつれた毛を指先でほぐしながら。手は頭から額、口元、喉仏、腹とめぐり最後に、肉球のない前足を握った。
「そしたら、そんなくだらない理由でやめるなんて常識がない、いままで世話になった恩をわすれたのか、とかいろいろ言われて。あのばばあ」
 前足を握る手に思わず力がこもった。見てもいないテレビに侍が刀を振って、猫がそれに驚いて逃げる、といったようなシーンが映っていた。
「仕事してるおかげで生活できてるとか、そんなのわかってるっつーの。現実から逃げちゃだめとか、もっと成長しなきゃならないとか」 
 いつもどおりの愚痴だったが、その日はいやに熱を帯びていた。この数ヶ月、彼女の愚痴を聞き続けていて、ひとつわかったことがある。彼女が嫌悪しているのは、会社そのものというより、ばばあと仮に呼称される存在である。逆を言えば、そのばばあさえ排除できれば、彼女の憂慮は解消されるはずだと、彼女自身は思っていた。
「なんか違うのよね、動物愛護団体とかそんなんじゃなかくて」
 愛という言葉が人間特有の偽善をことさら象徴するようで、いやに耳障りだった。

ふたつの方法


 はんなの仮説によれば、ばばあ自身を排除するか、はんな自身が去るか、方法は主にこの二通りあるが、どちらも簡単ではなさそうだった。ばばあはなんでも会社の創設時からいる社員で、仕事を生き甲斐にすらしているようだった。
 はんな自身が退職するのは本来は自由なはずである。ただ、退職の自由というものは形式上のみで、実際にはこのようにあれこれ理由をつけて辞意を拒絶されるのはよくあることのようだ。それでも辞意の理由に正当なものがあれば、まだとおりやすい。はんなはそれを模索していた。
「ねこ、ぬこ、キャット、キャッアッツ、ぬこが、なんつか、のびのびと、え~」
 はんなは一瞬、その表情を険しくし、すぐにまたいつもの間の抜けた様子に戻って嘆息をついた。その一瞬、はんなの脳裏に浮かんだ光景に、わたしは思わず目を閉じた。
 このあたりの彼女の思考の遷移は、余人には理解しがたいかもしれない。ただ、わたしにはすべてわかっていた。先の兄弟の事件から、はんながわたしに対し引け目を感じていることを。彼女は退職の理由をそのいわゆる引け目に、もっともらしく結びつけようとしていたが、彼女はわたしの心情を暗に理解してしまっているゆえに、それがうまく出来なかった。
「えーと」
 はんなはだてめがねをわたしにかけて、よしと言った。何がよしなのかよくわからないが、とりあえず前足でずれためがねを直した。

別れの前夜


 ともに過ごした最後の夜、別れを告げたわけでもないのに、お互いはよく眠れなかった。わたしはぐったりと窓辺によりそいながら、雲に見え隠れする月をじっと見ていた。ベッドに横たわるはんなの顔がぼんやりと光っていたので、スマホでもいじっていたのだろう。口ははんびらきで、頬の肉は垂れ下がり、目つきはうつろである。まるで魂の抜けたような顔をしていた。
 彼女はわれわれのために何かをしようとしているが、何をすればいいかわからず、そしてそのために仕事が足かせになっているということに苦悩していた。
 わたしは彼女に何も求めてはいなかった。ただ、苦悩する彼女を見るたび、わたしの傷跡はなぜかうずいた。彼女のため息に呼応するように、ヒゲ先がぴくぴくと動いた。

ばばあの詳細


 家を出る直前のはんなに関する記憶が、この灰色の空と雨にかすむ様にうっすらと思い返される。手持ち無沙汰のわれわれは記憶を魚に、少しく人を待っている。
 いままでは男と車で出勤するのが日課だったが、最近は男のほうが気持ち悪がってほとんど乗らなくなっていたため、主任はその日、電車で早めの帰路についていた。
 ばばあというほどの年でもなく、まだ三十代といったところだろうか。面長でやつれたような頬に、線のくっきりとした眉がへの字に描かれているところなど、確かに厳格さを感じさせたが、男といる彼女はどこか穏やかというか甘えというか、はんなの語る印象とは正反対のか弱さを見せることもあった。
 その日朝から立ちこめる曇天と雨模様をぼんやりとみつめる彼女は何を思うのか。わたしは雨によって洗い流されるかの親猫の末路を、肉と血と皮と、タイヤに踏み潰されて粉々になる骨を思った。
 水滴が主任の赤い傘を叩く音、ヒールが湿った路面を打つ音がいやに響いた。彼女は帰りに眼鏡屋によった。昨日男が踏んでつぶしてしまったので、その修理のためだった。
 雨合羽を着た学生らしき男女が動物愛護団体の募金をよびかけているのを、彼女は横目に素通りした。めがねはレンズまでヒビが入っていたので、新調することにした。帰りに傘を眼鏡屋に忘れた。雨はやんでいなかった。

罪の意識


「わたしは悪くない」
 光沢を放つように磨かれた赤い車体が、雨に濡れた彼女の乾いたような笑みをくっきりと写していた。
 雨が洗い流してくれるのなら、とっくに落ちているはずだろう。車はすでに下取りにだすことが決まっていた。車を遠くに、目の届かないところに追いやりたいという点では彼女も同意する。しかし今は無意味だった。どこにいようが目を閉じると、あの鈍い、いままでに味わったことのない音と感触、振動、ボンネット、フロントガラスに飛んだ血がまざまざとよみがえった。目の前にいた子猫とそれをかばったらしい親猫が、血まみれになって転がるさまが、確かにバックミラーにうつっていた。あのとき、男は鈍い音がしたので、あわてて車を停めた。一瞬人を轢いたと思ったのだろう、確認して、小さな猫一匹だったので、ほっと胸を雪崩れ下した。女は血まみれになった猫を気にしていたが、男がサッサと車に戻ったので、それに従うだけだった。
 スマホで猫 車 轢 罪と検索してみる。当然だが殺人罪にはならない。飼い猫ならせいぜい器物破損といったところだろうか。そうだ、これは仕事で急いでいたから仕方がなかったんだ。人間じゃなくてよかった。彼女はそう思い込むことで、罪の意識から逃れようとしていた。
 わたしはこの女をしばらく監視していたので、事情はだいたい把握していた。今はすこし疲れたので、こうしてボンネットの上に丸くなっている。屋根もついているので、ちょうど雨もしのげて好都合だった。
 車の下取りのため駐車場にやってきた主任は、それを見て表情を青くした。

不細工の決意


 監視するわたしを見て、ではない。車と対峙するように屹立する不細工は、正面の車をきっと見据えている。そのまま前傾姿勢に構え、二度ほど前足でコンクリートの地面をかいた。そして尻を後方に突き出して地を這うように全身をぐっとのばし、一気に跳躍した。
 狭い額が勢いよく車のバンパーにぶつかり、鈍い音とともに不細工は地面に落ちた。しばらくは倒れたまま微動だにしなかったが、やがて頭をぶるぶると振って立ち上がり、また車との距離をとった。
 額には血がにじんでいた。不細工は血を前足で拭きながら、やってきた主任を一瞥した。
 数時間前から繰り返されているこの光景に、マンションの管理人はいくら追い払ってもしばらくしたらまたはじめると、奇行をいぶかしがるだけだったが、主任は動揺を隠せなかった。あの子猫は、たしかにあのとき轢いた猫のそばにいたものだった。
 この突進が、親を殺した車への復讐といえば、そう見えなくもなかった。そもそも猫が復讐なんてするのだろうか、当然の疑念を主任は抱いた。ただ、彼女ははんなから猫に関する、かなり限定的な説明を聞いていた。猫は人間の考えていることをすべて理解している。自分でドアを開け、買い物をし、電車に乗ることもその気になればできる、まさに人間と同等の存在であると。聞いたときは本気にしなかったが、今になってそれが実感を伴うようになっていた。
―この猫は親を殺したのが自分だと気づいている
 不細工はまた前傾姿勢に身を屈めた。車を凝視するその目は、親の仇に向けられるべき恨みつらみのすべてが込められているかのように細く、鋭い視線を放っていた。ぶんと腫れた額を重そうに、首をぐらりと倒した。そして今度はくるりと向きを変え、ぐっと膝をためた。体は思いのほかゆっくりと空を舞い、伸びた全身が彼女の視界を覆った。
 主任は思わず後ずさった。その足元に、不細工はびたんと全身を打つように落ちた。ケガと疲労のせいで着地もままならないようで、ふらふらと立ち上がり、また距離をとった。
 不細工は首をきっとあげて咆哮した。にゃあという聞き慣れた猫の鳴き声が怨念と執念に濁ったような叫びが、主任の心を刺した。それはまるで仇に出会えた、祝福するもののいない歓喜のようだった。

恐怖


 執念、怨念、憎悪。不細工を動かす力を、なんと表現したらいいのか。続けてもただ自身が傷つくのみである。しかし目の前の仇には少なからず影響を与えていた。彼女は恐怖で震えさえしていた。不細工が向かってくるさまを目の当たりにして、自分に対する恨みを確信した。
「違うの、ほんとうに、そんなつもりじゃなかった」
 搾り出したようにかすれた語尾、震えるようにふった首、彼女は正視に耐えられず、逃げるように部屋へ戻った。
 不細工の突進はその後も続いた。主任が仕事から帰ると、マンションのエントランスのドアにむかって突進している不細工がいた。深夜、なにやら玄関のほうからする音に目を覚ますと、どうやって入ってきたのか、不細工が玄関のドアにむかって突進していたりもした。
 そんなことが数日続いて、心労を理由に主任は仕事を休んだ。男を仕事に送り出すとき以外、玄関はしっかりと施錠し、窓も全部閉めて、カーテンを引いた。その隙間を覗く顔に、帯状にゆらゆらと漂う光が落ちた。
 わたしは空っぽの駐車場で体を丸めている。すでに車は処分された。親子の血と体液の臭いが、滴る雫のよう点々と去っていった方向に落ちていたが、いくら我々の嗅覚を用いても、車の行方は追いようがなかった。
 しかし不細工が車でも運転手の男でもなく、主任のほうを標的とする理由は何なのか。彼女にとって、すでに不細工は血まみれの亡霊のようにしか見えていないのは、彼にとって悲劇なのか、それとも…。不細工はおぼつかない足取りでわたしのそばを通り過ぎ、その姿をふっと消した。彼がどこかへ飛ぶように去ったのか、わたしのまぶたが自然と下りたのか、それさえよくわからなかった。

ベランダからの音


 ベランダからどんという音がして、主任はすぐに顔を上げた。正体は見るまでもなかった。音からはっきりわかる、ぶつかった肉の質、やわらかさ、形、速度など、もう彼女にとっては呪いのように、体に刻み込まれたものだった。
 この数日間、恐怖や罪悪感というものは散々味わってきた。しかし、その音を聞いたとたん、彼女の疲労に黒ずんだ頬にさっと血色が戻った。何度も経験して慣れることによって、むやみな恐怖が消え、後に残った事実と対峙しようという決意が、彼女の中で徐々に芽生えていた。
 窓に突進し、そのままベランダに倒れた不細工は、いつものようにふらふらと起き上がり、ベランダのへりに飛び乗った。両足はがくがくと震えていて、立つこともままならないようだった。不細工は気合を込めるかのように一声鳴いて、しっぽをぐっと地面について、体勢を安定させようとした。
「どうして、そこまで…」
 もはや瀕死といってもいい。不細工に仇を討つ力など残っていなかった。だからこそ彼女は、鬼気迫るものを感じていた。そして彼女の胸にひとつの疑問が渦巻いていた。誰かを恨むということは、こんなに自分を傷つけ、疲労させてまで出来ることなのだろうか、と。言葉をもたない猫は、いったい何を必死に伝えようとしているのか。塀の上の不細工はバランスをくずし、地面に落下しそうになったが、手足をばたつかせてなんとか姿勢を整えた。彼女はほっと胸をなでおろした。
「あのネコも間抜けだよな、ネコならさっとかわせてもよさそうなもんだよ」
 数日前、男がそんなことをいっていたのを、ふと彼女は思い出した。そのとき、何か背筋に凍るようなものが走った。男の鼻で笑ったようなしぐさはさっと視界より消え、とたんに不細工の腫れあがった額をした顔が、今と同じ迫力を持って脳裏をよぎっていた。
 内臓をつぶした感触を思い出した。骨を砕いた感触を思い出した。窓を叩いた音は、そのときとはくらべようもなかった。それでも彼女は思い出していた。死んだ親猫と瀕死の子猫の姿が、彼女の瞳で重なった。

不細工の真意


「もしキミがいなかったら、親は助かっていた?キミを助けるために、親は」
 人間の目には、あの刹那の瞬間はとらえられなかったろう。親は気が動転している不細工を銜えて跳躍しようとしたが、それが間に合わないと判断し、身を挺して子供を守ったのだ。衝撃によって歩道まで飛ばされたにもかかわらず、彼は皮肉にも、猫族のすぐれた動体視力によって一部始終を見ていた。
 自分がまだのうのうと生きていること、それ自体が無力の象徴だった。殺された恨みなどどうでもいい、もし彼に、自身で車を避ける能力があったら、親が死ぬことも、人間が罪の意識に苦しむこともなかった。親の無残な死は誰よりも彼の脳裏に焼きついていたのだ。あまりに唐突な死ゆえに、彼には愚直に親と同じ道をたどるしかなかった、親の姿を、真似るしかなかった。
 彼女は意を決したように窓をあけ、不細工にむかって両手を広げた。怯えていた自分がとても小さく見え、自分の未熟さに紳士に向き合う不細工の小さな体がとても大きく、誇りに溢れるよう輝いて見えた。
「おいで、わたしが受け止める。あなたは親の死を、仇を、飛び越えられる」
 同胞はその誇り高さゆえ、子にさえ何も伝えようとしないことがある。あるいはこのような不慮の事故では、何かを遺すいとまもないだろう。ゆえにこうして親の後をただ追おうとする行為を、人間は自死と同等に非難し、同情するのだろうか。あるいはこのか弱き女のようにするのだろうか。ただ、もし死ぬことになっても、どうかその死を軽んじず、尊重し、認めていただけないだろうか。われわれは人間ほど死を恐れないし、悲劇とも思っていない。それは生けるものの摂理でしかないのだから。 

跳躍


 不細工はへりの端から端まで助走をつけ、跳躍した。同胞特有のしなやかな肢体、筋肉とはおよそかけはなれた、手も足も傾いた大の字のように、ばらばらと広げた不細工な格好で。見上げた彼女の顔に、手足をばたばたともがくような不細工の影が落ちた。
「無理しちゃだめだよ、せっかく親が守ってくれたんだから」
 殺したのはお前のくせに、そんな非難を生涯浴びることを覚悟したときに、それは自然と出るようになっていた言葉だった。
 怨恨は彼女に向けられず、ただか弱き自身をその鋭い矛先にて刺突し続けていた。彼女の涙が不細工、いやクウの腫れた額に落ちた。そう、クウと名づけられた不細工な猫は、傷を癒せば、きっとどこまでも高く、美しい挙止で飛べるようになるのだろう。わたしにはもはやその雄姿を見ることはできなかった。ただ事故現場に花と猫のエサ缶がそなえられているのは、この町の去り際にしっかりと確認した。

 

#創作大賞2023 #お仕事小説部門


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