完全なる世界
俺は死んだ。
寝不足でフラフラ歩いていた交差点。歩行者用の信号は青だったと思う。思うけど、どうだったか確信は持てない。
ただ、ふと右を向いたときに目と目が合った、サラリーマン風の運転手の青くなった表情が目に浮かぶ。きっと脂汗も出ていたことだろう。
「やっちまった! どうしよう!」っていう表情をしてたっけ。
まあ、気にすることはないさ、俺は死んだし、いや、むしろ死んでしまって申し訳がないとさえ思っている。もしも今、あの時の運転手さんに伝言を残せるならば「大丈夫だ、気にするな」と伝えたい。今更どうしょうもないけどね、死んでしまったものはしかたない、生きているひとのことは生きているひとたちに任せようか。
大きな後遺症を背負ってまで生きていたいとは今更思わないしね。だってたぶん辛いだろうし、俺はそんな度胸のある人間じゃないと思う。だから死んでよかった。死んだことを受け入れている。
ところで、今いるこの場所はどこなんだろう。どこなんだろうって、死後の世界に決まっているんだけどね、地獄ではなさそうだ、鬼もいなけりゃ血の池もない。かといって天国かといえばそうでもなさそうなんだ。だって何にもないもの。ただ、見渡す限りの白い空間。床は白いタイル張りで、かろうじて上と下はわかる。地平線とでもいうのかな? 遥かかなたでは、白い床と白い空がつながっている線がある。
「だれかいませんか?」
そう思った時、突然目の前に、美しい女神さまが現れた。
出会った瞬間に、なんで女神様だと確信をもって理解したのだろうか? でも、そうとしか思えない、本能的にわかるというか、それ以外にはありえない、なんというか、圧倒的な存在感、初対面なのに懐かしい、知らない相手なのに今までずっと一緒にいた、そんな感覚だ。
長い黒髪、秀でた額と整えられた前髪、知性を称えた凛々しい目元と眉、鼻筋はまっすぐに通り、口元には笑みを称え、艶やかな唇に無言の祝福と肯定の意思を表している。胸は大きくもなく、小さくもなく、ほんのり膨らんでいて、色彩豊かな細かい柄の入った布一枚のワンピースを体に巻いてまとっている。
ハッキリ言っていい女だ。たまらなく抱きたい。犯したい。
そんな下心が伝わったのか、女神さまの体はどんどん大きくなって、山のように遠くで聳えて、私を見下ろした。
怒っている? そうでもなさそうだ、だって、ニコニコ笑っているから。
その目元はどこまでも優しく、母親が子供を見守るかのように、俺のことを暖かい眼差しで見つめている。
「こんにちは」
「………。」
返事はないが、優しい表情で私に肯定の意思を伝える。
俺は死んだ、そしてここに帰ってきた。「ただいま」という前に「おかえりなさい」と答えられた気分だ。
俺の人生を振り返ると色々あった、最初に付き合った彼女にはひどいことをした、次に付き合った彼女にはもっとひどいことをした、最後に付き合って結婚までした女性には、まあ、最後には優しくできたかな。俺が先に死んじゃって、これから先苦労もさせるだろうけどさ。
地位も名誉も築けなかったけど、死んで今更そんなことはどうでもいいか。周りのひとにはそこそこ優しくできたかな、まあ、迷惑をかけたこともあったけど。嫉妬をしたり、恨んだり、お金を惜しんだり、人間臭い生活をしてたっけ。
もうすこし、もうすこしだけ、相手の立場に立って、優しくできたことがあったかもしれないな。
そこまで反省をしたとき、足元にひとつの巻物が音もなく置かれていることに目で気が付いた。いかにも忍者が口に咥えて忍術を唱えそうな、そんなデザインの緑色の唐草模様の巻物だ。
女神さまの表情を伺うと、ニコニコ笑っている。相変わらず無言で私のことを暖かく肯定している。
この巻物は女神さまから下賜されたものだ。本能的にそう理解した。
俺は巻物を手に取った。汚さないように、壊さないように、ゆっくりとひも解いて、開くと。
何も書かれていない。全くの白紙だ。
そこで理解した。この世界。
何もない。だから全てが揃っている。
俺は俺だけど、もう、俺ではない。
見ることもできない、だけど、見たいものが見える。
音も聞こえない、だけど、聞きたい音を聞くことができる。
風も吹いていない、だけど風を感じたければ、感じることもできるだろう。
ここは俺の世界、俺だけの世界、だけどみんなの世界で、そして誰の世界でもない。
永遠に終わりがない代わりに、終わらせることもできる。
粒子であり、波でもある光、連続でもあり、断続でもある時間、1でもあり無限でもある数字……。
生きていた時の俺は世界の断片だった。そして、ここに帰ってきた俺は世界の全てだ。
この暖かい、祝福された、何もないけど全てが揃っている世界に、ずっといてもいい。きっと退屈もしない。
だけども、何でもできる代わりに、何もできない。
きっと夢を見たら目が覚める。
人生あっという間に終わるけど、やっぱり生きている方がいいかな。
次の人生では、もっとひとに思いやりをもって生きられたらいいな。
そう思って俺は眠りについた。
夢を見るために。
惜しむらくは女神さまを抱けなかったことか……。そう思い残したことを最後に、俺は意識を失い、そして、目覚めを待った。
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