東京国立博物館特別展「栄西と建仁寺」

きょうは、東京国立博物館の「栄西と建仁寺」展を観に、上野まで出かけました。展示会場である平成館での今回の目玉作品は、俵谷宗達の作とされる、国宝「風神雷神図」です。本館の常設展に、それを模した尾形光琳の重要文化財も展示されています。並べて見ることはできないものの、印象が消え失せないうちに両方を観ることができるので、お得かもしれません。

国宝版を見て意外だったのは、こんなに荒い描き方だったのかということ。それがしかし、遠目で見ると、見事なのです。実際にやろうと思っても無理のある、それでいて生き生きと躍動的な(そう、ジョジョ立ちのような)ポーズ。嬉々として業務に励む風神と雷神の表情。揺れるような肉体。かすむような雲。それらが迫ってくる。この手の意外さは、ベラスケスの絵画でも感じます。たとえばべラスケスの代表作「ラス・メニーナス(女官たち)」を間近に眺めると、生々しい筆跡が目にはいります。ところがそこから少し離れて見ると、肌のつやといい、服の布地の質感といい、部屋のなかの陰影のあざやかさといい、申し分ない仕上がりに見えてくる。逆にいえば、これは描き手の腕を示すのでしょう。構図とポーズの選び方、色彩のバランス、言い換えれば、瞬間の切り取り方と視点の選び方が、非常に鋭い。これがこの作品のすごさだと思います。

重文版のほうは、たしかにうまい模写ではあるのです。模写とはいえ、違いがあることにも気づきます。色がややくっきりしすぎていたり、風神の視線がすこし国宝版とはずれていたりと、細かくみれば違いもあって、国宝版とくらべると、ソツなくきれいに描いた感じです。なにより、近くで見てもそれなりに整った線で描いてある。(といっても雷神の連太鼓の荒さについては国宝版と同じ程度に荒くて、一見して「ちょっとちょっと」と言いたくなりそうなところまで忠実な模写だったりもします。)全体に、こまかいところまで丁寧にしあげたせいなのか、どこか生気に欠けるようにも思えます。そっくりに描かなくてはならないという制約がある模写に、自由にふるった筆さばきを求めるのは酷なことなのかもしれません。重文版の印象は、たとえれば銭湯の壁画のような絵です。上手ではあるけれど、おどろきはない。

国宝版の印象をたとえると、昔、人手で描かれていたころの遠目では写真と見紛う映画の看板、あるいは特撮のマットペインティング。間近でみると粗雑にすら見える描線が、遠目には生き生きと写実的にすら見える、その手練れのマジシャンの技にうまくだまされたときのような、ちょっとしたくやしさを帯びた高揚感。それは、ヒトの視覚の隙をさらう、絵画の魔法と言ってもいいのではないでしょうか。

スキひとつじゃ足りないっていう気持ちになることがもしあったら、考えてみていただけると、とてもわかりやすくてうれしいです。