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ジャルジャルは人間になれるのか

6月21日「M-1グランプリ2018」のエントリー受付が開始された。
エントリー資格はプロアマ関係なく結成15年以内で2人以上のコンビ(ピンは不可)。
去年栄冠を勝ち取ったとろサーモンは結成15年目のラストイヤーで初の決勝に進みそのまま優勝したことでも話題となった。
そして勿論、今年も結成15年目のラストイヤーを迎えるコンビがいる。
それがジャルジャルだ。

ジャルジャルのネタはいつも切り口が独特だ。
「ツッコミのタイミングが早いけれどネタを知ってるからどうしても待っていられない」
「交互に気になる言い間違いや言い回しを延々とツッコミ続ける」
「福徳が1人で漫才をやりたいと言い出しどんどん分裂していく」

そしてこの奇抜な切り口を、しつこく、執拗に繰り返す。そのしつこさがジャルジャルの持ち味と言っていい。
システマチックに作られてはいるが、飽きさせない仕掛けをふんだんに散りばめ、そのしつこさをグルーブに変換していく。
「新世代の笑い」と言われ、芸歴の浅い段階から同業者からの評価も高く、次世代のニューエースとして君臨してきた。
そんなジャルジャルが、結成15年目を迎える。

「漫才とはなにか」
ジャルジャルの主戦場はコントだ。1つの舞台と設定を使い、擦り倒しながら発展させていくジャルジャルの笑いはこと漫才においてもどこかコント的だ。
もちろんそれが「漫才ではない!」というつもりは毛頭ない。テツandトモを筆頭に漫才然としていないM-1出場者はごまんといた。
ただ「M-1優勝」となると話は少し変わってくる。

コントチックな漫才の最大の弱点は「人となりが見えないこと」だと私は考える。
これはコント師たちが口々に語る経験談、「コント芸人は2度売れなくてはならない」に通づる。
これはコントの宿命なのだが、ネタのウケは言わば「コントとしての出来」が評価され、そこからひな壇やフリートークでは「本来の芸人としての存在」が評価軸になる。
もちろんこれは漫才芸人でも重要視されることなのだが、漫才をする芸人は比較的漫才中の印象と平場の印象に乖離が少ない。そのため視聴者やMC、スタッフに与える影響への距離が短く、芸人本人のアピールが潤滑になりやすいと言える。
M-1優勝者とキングオブコント優勝者に露出度の差が大きいのもここに起因しているのだろう。
逆に古くはさまぁ〜ず、今だとバナナマン日村やバイきんぐ小峠のような、コント内の役割と平場の感覚が近い芸人は重宝されている印象だ。
そしてジャルジャルはと言うと、彼らの漫才は隙がなく、どうしても「人となりが見え辛い」。

ある番組で彼らは「憧れの漫才師は中川家」と答えた。
中川家はパッと見正統派漫才師に見えるが、むしろハチャメチャな破天荒漫才だ。
飄々としたボケの兄・剛とキレのいいツッコミの弟・礼二。一本筋の通ったネタの中に数え切れないモノマネとアドリブを散りばめ2人でゲラゲラ笑いながら爆発的な笑いを作り上げていく、まさに究極の劇場漫才師である。
ジャルジャルが中川家に憧れている事が最初は意外ではあったが、この破天荒さに目を向けると確かにジャルジャルのルーツに近いのかもしれない。
だがM-1審査員での中川家礼二は、ジャルジャルに高得点を付けたことがない。ここにも前述の「人となり」の話が絡んでいる可能性がある。
同じ破天荒でもシステマチックなジャルジャルとアドリブでのグルーヴに重きを置いている中川家では乖離があるのだろう。
ジャルジャルへの総評を求められる度に礼二は「一本大筋があってそういう(コント然とした)ボケを足していったらもっと良くなる」と語っているのもそういった漫才感の違いが出ているかもしれない。

逆にジャルジャルに高得点を付けているのが松本人志とオール巨人である。
ダウンタウンは漫才の革命児としてスターダムにのし上がったコンビだ。「漫才らしさ」というものをいの一番に壊していった松本人志にとってジャルジャルを高得点にする道理は納得がいく。
オール巨人も「マイクがあって2人が喋っていればそれはもう漫才だ」と語るほど漫才への表現の懐は広い。純粋に面白いか否かで評価していると考えると、客受け抜群だったジャルジャルに高得点なのも頷ける。

そんなワケで評価が分かれたジャルジャルは2017年M-1グランプリで6位敗退となった。
この結果は今でもネットで議論が行われるほど賛否が分かれている。
客受けは間違いなく抜群だった。その日イチだったかもしれない。ネタの完成度も文句ナシだった。あの難しいピンポンパンゲームを1つのネタに落とし込んでやり遂げたのは本当に恐れ入る。だが6位。最終決戦に駒を進めることさえ叶わなかった。
「ここまでの完成度のネタを披露してダメならジャルジャルはM-1のような賞レースに向いていないのかもしれない」
「むしろ今回のように評価が分かれてこそジャルジャルらしいとも言えるのではないか」
「ラストイヤーを迎えジャルジャルがここからM-1用に変化していくのは逆にマイナスなのではないか」
果たしてジャルジャルはこのままラストイヤーを迎えるべきなのか。
私個人の考えを言わせていただくと
「そのままでいい!!」だ。

理由は、福徳の涙である。
点数が発表された後、テレビにも関わらず福徳が涙を零した。
後日福徳が語っていたが、ネタが終わりかつてない手応えを感じた彼は「どう褒められるか」ということ以外頭になかったらしい。これはもう当然である、あれだけのネタをして自信を持たない方がおかしい。だが結果はそうではなかった。そしてホロリと涙が溢れ、隣でボケる後藤に「お前ようボケれんなぁ…!」と静かに感情をぶつけた。

このシーンは私にとってM-12017のハイライトだった。あれだけわからなかったジャルジャルの「人となり」が溢れ出た場面がかつてあっただろうか。あそこまで感情を露わにしたジャルジャルを見たのは初めてと語る芸人も数多くいた。
システマチックでメタフィクションでトリッキーでコントチックなジャルジャルが見せた涙。少なくともM-1グランプリという大会に彼らの人となりは刻み付けられた。
この結果により、ジャルジャルのネタが変わらなくとも、周りの見る目が変わってくる。ネタから彼らの「人となり」を受け取ることが可能になってくるのだ。
もちろんそんな感情論だけで結果が出たら苦労はしないし審査員だってそういうとこは別に置いて審査するだろう。
だがもしも本当にジャルジャルが優勝することになったならば、去年の涙を流した福徳、そしてそれを見ながら淡々とボケた後藤、この2人が見せた「人となり」がジャルジャルの中で良い方向に向かったと考えてもいいのではないだろうか。

今年のM-1の本命は2年連続2位の和牛、対抗で昨年3位のミキ、ラストイヤーの常連スーパーマラドーナ、そしてジャルジャルではないかと思われる。
ニュースターも待望されている。個人的には四千頭身や金属バットやモグライダーが見てみたい。
今年も激戦になることが間違いないM-1グランプリ2018。果たしてジャルジャルは有終の美を飾ることができるのか。
ジャルジャルが1000万円の栄光を手にした時、我々は初めて「人間としてのジャルジャル」を見ることができるのかもしれない。

#M1グランプリ #ジャルジャル #お笑い #漫才

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