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宮古島と三島由紀夫《後編》

宮古島の大自然に触れて、東京に帰った。
ビル、人工物、コンクリート、埋め立て、ネオン、広告、つり革、満員電車、溢れかえる人、駅のホーム、街に流れる聞きたくもない流しっぱなしのJーPOP
誰もが違和感を抱かずこのコンクリートジャングルを生きている。

姫路の田舎生まれの自分からすると、そもそもこの東京という土地の“胡散臭さ”は常に感じていた。
しかし、満員電車に揺られる日々や、混雑する駅のホームで、人をまるでモブキャラ避けゲームのようにすり抜けていく日々を繰り返すと、その違和感にも慣れる事ができる気がほんっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっつの少しはあった。
しかし、所詮そんな生活はフィクションであることを、宮古島に行き、はっきりと認識させられた。

人間と自然の本来の関係や、近所づきあい、人は決して背景ではないことを教えられる。
東京は人間をポンコツロボットにしていく、情報が溢れかえる、テクノロジーが溢れかえるが故に人は自分の身体性を頼れなくなっている。
昔は人の電話番号を20個は覚えていたけど、携帯ができてからほとんど記憶できる力は下がっているし、自然と人口の自然の区別もできなくなっている。
それは恐ろしいことだ。

東京という街では、慎ましさは基本的にばかにされる。自由の名の下に、いまよりもっと稼ぎ、いまよりもっといい家に住む、もっと稼ぐ、いいご飯を食べて、上流階級の仲間入りになることを多くの人が“良い”“成功者”というクソ社会の代表である。

宮古島のように、慎ましく毎日同じことを繰り返す日々の素晴らしさに気づけなくなっている自分たちがいかに愚かであるかを理解できない。

同じことを毎日繰り返す、コツコツと自分の生を全うするその生き方こそが、美である。

みんな見て!こんな高いバッグを持ってるよ!みんな見て!美しいでしょう??いい家でしょう?と言ってる、人間たちに全く美は存在しない。

このことを端的に表しているのが三島由紀夫である。三島由紀夫は美について「美とは客観的なものである」と明言している。すなわち、主観の中に自分が美を持っていることや、美を狙っている時点でそれは美ではなく、一切合切全ての客観性を切り捨て、主観的に生きるその姿を他者が客観的に捉える際に“美”はあるのである。故に美とは客観的であると言うのだ。

そのように考えると、少しでも人によく思われたいだけのおしゃれなマンションや、意味不明なオブジェの建物、ファッション、デザインが溢れかえる東京はその一切が美を狙っている時点で何も美ではない。

そう考えると、全く美を狙わない、宮古島や慎ましく生きる彼らこそが美である。
他人の評価ばかり気にして、美を主観で狙う建物が溢れかえり、空気が流れるこの東京という街では、人々の心もそうなっていく。インスタやツイッターもそうだろう。みんなのいいねがほしくてやっている事になんの美しさもない。

美を自らアピールすればするほど、美から遠ざかる。しかも、社会がそれを空気として強制してくる。この街に住む人間たちはみな徐々に美を失っていくだろう。

ドブネズミの美しさを忘れた時、現代人はすでに本物の美を感じる力を失い、フィクションの美を本当の美とするだろう。
すなわち人間はその時ついに、美について完全に劣化した人種に成り下がるのだ。

あじゃぱーー。

っと思いながら俺は今日も美について考えている。

さぁ、困ったものだ。どう生きようか。

ウォーキング仲間と今日もウォーキングだ。
楽しみ。ルンルン♬
ありがたいよね。ほんとに。こんな夜中からウォーキングしてくれる人がいるなんて。

#エッセイ
#三島由紀夫


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