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「好き」のグラデーション

 前から思っていることがあるのですが
 みんな「好き」への信仰すごくないですか?

 私のなかでは「好き」って何段階もあるんです。

 恋愛的な「好き」もあれば知り合いとしての「好き」もあります。
 それぞれはパキッと分かれているわけではなく、徐々に移り変わるようなイメージでいます。
 数字にすればわかりやすく「アッチとコッチはこれくらい差がある」みたいな表現もできるでしょうけど
 好意を数字で評価するのは避けておきたくて、じわーっと移り変わっていることにしています。

 私の中での「好き」の概念はそんな具合ですが、外から見たときの感覚はちょっと違うかなと感じています。

 知り合いに好意を伝えると、それが知り合いとしての好きだとしても恋愛的な好きだと思われることも少なくありません。

 時代的な背景もあるかもしれませんが、同性であってもそのように受け取られることもあります。
 私の性的嗜好は特別お伝えしていないのですが、それはそれでどうなんでしょうね。

 好きや愛の形はいろいろあっていいはずなのに、受け取られ方は過激なものに傾聴している確率があまりにも高い。

 それを指摘しても、「好き」という言葉の強さを妄信している人が多くてどうも動きづらいように思います。

 よくあるのが「月が綺麗ですね」がI Love You.の訳であるというアレ。

 別に何の思いもなく月が綺麗である事実を伝えただけで愛してる意に受け取られると、迂闊に月の綺麗さを口に出すこともできないんですよね。

 これ、すっごく不便なんです。
 桜が咲いていて綺麗ですね。にはなんの意味もないのに、月だけは愛を含まれる。
 なんででしょうね。

 友情と同等の好意を性愛的な好意に変換して受け取るのと、どこか似た構造のように思いませんか。

 全員に聞いて回ったわけではありませんが、「好き」への妄執的な信仰がどこかに根付いているのではないかと想像しています。

 「好き」の意味を全員が正しく受け取るのはちょっと難しいところがあるかもしれませんが、可能であれば「月が綺麗ですね」くらいは普通に言える世界になってくれるとありがたいです。

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