石田組の演奏、音楽の力

音に誘われるが如く思考の暴走
しかし精神までをも蝕むには能わず
音波の特有性?
まるで魔術、触れる、音の波が、空間を揺るがして、聴覚から、脳へと伝う
技巧を研ぎ澄ました、特定の音色を作り出すために、極限まで重ねられた鍛錬の末
これは兵器?武力?匹敵し得る人類の叡智
音楽、科学的探究にすら値する芸術

来るぞ、揺れるぞ、ここが彼らの独擅場

2023/11/23

先日ミューザ川崎シンフォニーホールへ、石田組の演奏を聴きに行った。
上の厨二病ポエムは1部と2部の休憩時間にぽわ〜とした頭のまま打ち出した文字列。何故かiPhoneのメモアプリに残っていたので、当日のことを思い出しがてら引っ張ってきた。

クラシックのオーケストラコンサート、オペラ、ミュージカル、演劇、歌舞伎、能、狂言etc……幼少期から色々なものを観てきたけど、とりわけクラシックコンサートなんかは聴きながらうとうとして親に怒られる、というくだりが多過ぎて、休日の予定を勝手に埋められながらもなんとか演奏会後の食事等を楽しみに乗り切ることが多かった。多分私の中の蓄積が少な過ぎた所為で、その演奏会が持つエネルギーを受容しきれなかったからだとは思う。歌舞伎や能、狂言が眠かったのもその辺りが原因だろう。

そんな思い出もあり、この日も「もしかしたら寝てしまうんじゃなかろうか……」という一抹の不安を抱きつつ、自分の生まれ年にザルツブルクと友好都市を提携した市に足を踏み入れた。
ターミナル駅というだけあって、駅の中は品川とかに似ている。改札をすぐ出たところにランドマーク的な時計塔がドーンと立っており、駅舎から最寄りの商業施設までの道のりは人の出足が天候に左右されないよう、雨避けの屋根が続いていた。
そしてミューザ川崎シンフォニーホール。ここは中学くらいの頃訪れたことがあったが、当時は公演時間が暗い時間帯だった所為か建物の様子等あまり記憶がない。
だからこの日は正味初めての気持ちで施設を楽しむことができた。
建物の周りは音楽や聴覚をイメージしたようなオブジェが並び、それに登ったり座ったりする子供もいる。建物自体はよくある綺麗めの複合施設だが、コンサートホールの座席がなかなか面白い並びをしている。よかったらHPを見るなり、ここで開催する公演を観に行ったりしてほしい。
そして地味に結構な見所は、ショップ。グッズのデザインがなかなか、なかなかなのだ。いいデザイナーがついている。ここで数十分は時間が潰せると言っても過言ではない。また、2階のドリンクコーナーで提供されるコーヒーとクルミのフィナンシェが美味しかった。フィナンシェ、どこで製造していたんだろう。

このフィナンシェを肴()にコーヒーを飲みながら「あ、演奏前にこんな飲み食いしちゃって……寝ちゃったらまずいなぁ」と内心冷や汗をかいた私だったが

まるで杞憂だった。

語彙が吹っ飛ぶ。冒頭のポエムがまさに当日の気持ちそのものだ。
弦楽器だけでこんなに音に厚みが出るものなのか?
こんなに小気味の良いリズムが刻めるものなのか?
なんだその演奏は、と、音楽の素養がまるで無い私にも彼らのカッコ良さはこれでもかという程鮮烈に刺さる。身体中の細胞という細胞が音楽を聴くことに意識を90°傾けるのが、自分でもわかるほどだった。
聴いたことがない曲であろうと、遠慮なくこちらの心を鷲掴んで離さない。
しかし、大衆向けのセットリストであれば大抵の人間が知るような曲も当然入る。
ハチャトゥリアンのレズギンカ。聴いたのは佐渡裕/シエナ・ウインド・オーケストラ『ブラスの祭典』以来だった。佐渡裕は母がファンだったため小〜高時代はよくコンサートに足を運んだ。余談だが同い年である霜降り明星の粗品が佐渡裕のファンで、一万人の第九の司会に抜擢されたことでいたく喜んでいたことに数年前ちょっとびっくりした。
話を戻すが、そのレズギンカの演奏が若干アップテンポだった。が、演奏はすごく正確で、音一つ一つが真っ白に粒だった最高級の新米のように見事で、噛み締めれば噛み締めるほど(米なだけに?)その良さが全身に染み渡るようだった。食い物で喩えるなよ感性が鈍だなと言われてしまえばそれまでだが、もう人の生における食物のように栄養の如く音色が自分になにか──何かは分からないがとにかく何某かの影響を与えている。

電波の制限、思考のクラウド化
切断、断崖、独占、洗脳、
思考の同一化
空間、環境が形作る個別の場所

2023/11/23②

これも一読すると完全謎セルフポエムだが、当日の自分の思考まで一旦意識を飛ばして解読しよう。

特定の音波・音階・音声が脳に影響を与えるというのは創作物にもよくある表現だ。私の中ではアヤ・エイジア(魔人探偵脳噛ネウロ)の歌唱、インデックス(とある魔術の禁書目録)の魔滅の声(シェオールフィア)辺りがイメージとしてすぐに引き出し易い。音的パフォーマンスによる大衆感情の煽動、五感全体のイメージならベロ・ベティ(ONE PIECE)のコブコブの実で考えたらわかり易いかもしれない。一点の方向性に集まった感情は行動という蛇口から飛び出た時、爆発的なエネルギーを伴うだろう。
しかし特定の音が人の脳に影響を与えるに際し、紙が擦れる程度でも雑音が入ればたちまちその影響力は立ち消える。ここでまたしても『とある魔術の禁書目録』だが、強制詠唱(スペルインターセプト)がまさに概念としてジャストフィットする。
それを引き起こす要因としてここ数十年一番影響が大きいのは、聴衆が持参する携帯電話の音声かと思う。公演の最中に携帯電話の音声が入って興が削がれた、という悲劇は後を経たない。落語の前座でも、携帯電話の電源落としがアナウンスされない回は見ない。芸人のラジオ番組を聴く人間なら、一度は同件に関する苦言を聴くのではないか。そのくらい、予期せぬ携帯電話の音声は公演のパフォーマンスを著しく欠損させる要因になるのだ。

但し、ミューザ川崎シンフォニーホールにおける当該心配もまた、杞憂だった。
通信抑止装置(ジャマー)の活躍だ。言うなれば、強制詠唱強制抑止とでも喩えようか。
ジャマーの導入自体はガラケー時代からあるのだが、私は大学入学まで携帯電話の所持を認められていなかったため(平成生まれです……)その存在を知ったのは10代も終わりの頃。
演奏開始数分前頃から装置が起動し、通信が強制的に遮断される。
携帯電話の電源が入っていようとそもそも関係ないのだ。

宗教集団(古典、新興問わず)が信者に対して布教活動を行う時に、音響に優れた閉鎖的空間を利用するのは、音が与える影響を最大限に利用するためなんだろう、多分。にも関わらずオルガンの響く大聖堂で「主のみ聖なり、主のみ王なり、 主のみいと高し、イエズス・キリストよ」と歌っていながら教えが一向に身に付かなかったのは、おそらく眠気のせいだったんだろう、多分
話が大幅に逸れてしまったので時を戻そう。そういったテクノロジーの進化によって一度ホールが生まれ、それが更に補強されるように塞がれ、音を介した情報伝達や布教の精度が上がることで、より特定のコミュニティのカルト的思想の共有強度も比例して上げることができるんじゃなかろうか。そして私の知らない分野で既にそのテクノロジーが有効活用されて、特定の人間の恣意通りに動いている環境が存在しているんじゃなかろうか。

ってことを考えたのが上記の謎単語羅列だったのかなぁ、多分。
広い会場で一つの演目を何千人もの人間と共有した時えも言えぬ興奮が溢れ出て思考が爆発しちゃうのか、たまたま私の当該思考を引きずり出したのが石田組の影響なのか。
今になってすら未だ分からないままだけど、音楽にはまだ言葉にし難い力がある。
誰かにその真実を探究してもらいたいなぁ、そしてその見聞によってスッキリしたい。でも私が考える程度のことだから絶対もう誰か研究し始めてるよなぁ。探す?探す?会社の業務について勉強する方が先なんだけど気になっちゃうのヤだな〜

明日も言語能力に欠損なき日であることを願い、床に就きます。


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