一発勝負

今朝は娘と穏やかに過ごしながら学校へ行く準備をしていました。朝から時間割の話なんてめったにしないのに、何だか言いたくなりぼそぼそと食事中の娘に言ってました。

「今日は国語、算数、………書写……だねぇ」
ただ何気なく意味もなく言ってた私に
娘「えーっ、しょしゃいやだー!」
と即答します。そーいえば…
「あー、消しゴム使えないし二度書きダメだから?」
以前、書写は何をするのかたずねた時にそのように聞いたことを思い出しました。

1年生の宿題といえばひらがなと何番目?というような算数と音読です。1枚のプリントに同じひらがなを20文字位、薄い字をなぞり後は自分で書く、綺麗に文字を覚える宿題です。几帳面な娘は何度も何度も書き直します。2Bの鉛筆は娘の消し方では残る部分が多くて、最近では私がキレイに消して書き直しをしています。どうも「お直し」が嫌なのと「花丸」をもらいたいようです。

そんな娘に「消しゴムダメ」はすごく不満で嫌なもののようです。でも、「筆で遊ぼう」は好きでした。(幼稚園での毛筆体験)

「でもさー、筆で遊ぼうは消しゴム使えないし、二重にも書けないよ。それは嫌じゃなかったの?」
娘「それはいいのー」

何とも勝手な…私が考えるに、筆は予測出来ない部分もあって絵のような感覚でもあって、また生活の中にもないもので(我が家では毎日触れることもなくて、たまに私の気分で出来るだけなので)別だと考えているんだと思います。

反対に、鉛筆は字を書く前から色塗りをしたりぐしゃぐしゃとお絵かき帳に書きなぐったりまずいつも身近にあるものでした。彼女の人生に鉛筆は確実にいました。

なのでそれだけ触れてきたもので上手くいかないのが嫌なんだと思います。納得がいくまで書き直し、次の日丸をもらえたら私に見せてくれます。嬉しいのが伝わります。

でも私はふと思いました。「なぜ書写の授業があるのか」、それにその2つのルールは?

私は先生でもないし賢くもありません。学歴もありません。でも、ちょっと思いました。

「一度きり」って大切なことじゃない?って。多分そんな大きな話で書写をしているわけではないでしょう。集中しよう、位かな。でもこの「一発勝負」は大切な成長を出来ると思います。

この笑ったり泣いたり、怒ったり悲しんだり、生きてること自体これも全部「一発勝負」なのではないでしょうか。毎日同じように仕事に行く、毎日同じように帰ってきてお風呂にご飯、でも「同じ」ではないのです。だってその人のその時間は一生に一度しかないまさしく「一度きり」なんですから。

私は死ぬまで生まれた土地を離れるつもりはありませんでした。でも、就職を検討している時に離れる決意をしました。が、縁なく地元に残りました。結婚しても県内でとどまりそのまま一生を終える予定でした。が、主人に転勤の話がありのっかりました。何十年も生きていると、知り合いやら友達やら大切な人はそれなりに増えています。それでも私は主人についていくことを選びました。行った土地でも新しい友達が出来ました。娘にも友達ができて楽しく過ごしていた所に、また転勤の話となりました。もうどこにでもついていく、と決めた私は何も怖くありません。

よく人生はやり直しがきく、だとか、白紙に戻して、なんて聞きます。意味は分かるしそうだとも思います。けど、「今」から新しく生きることは出来るし、半紙を新しいものに変えるようにリセット、という気持ちで生き直すことも出来ると思います。

ですが、私は考えます。それまでのことは消えないし消さなくていい、全部含めて今の自分があるのだから。もちろん嫌なことがあったり、悲しい思いをして消したいって思いの人もいるのは承知です。平々凡々と今まで過ごしてこられた私には想像も出来ない大変な思いをしてきた(している)方々もたくさんだと思います。この一瞬も頭を抱えていたり涙が止まらなかったりいけない一歩を…などそれはそれはいろいろあると思います。

私はこの人生の「一発勝負」に勝とうとも負けてもいいや、とも思っていません。そもそも勝ち負けの「勝負」と思ってなくて、筆を持って半紙に向かっている自分をイメージしています。半紙は1枚しかない、書き直しができない、上手く筆をおけるか、真っ直ぐひけるか、止めは綺麗か、紙に収まるか、かすれないか、納得いく作品になるか。

人生も書写のように「一発勝負」です。自分の納得がいく選択をして、思いもよらないかすれがステキだったり、それは私が引っ越しをしたことで得られたモノのようであり、字がいがんでも自分がよければいいのであって。そしてそれは消せなくて。

人それぞれ山あり谷あり、楽あれば苦あり、だけど人生っていう名の「一発勝負」を楽しみませんか。「自分なり」でいいし、そうでなければいけないはずです。唯一無二のものに。


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