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山田金一物語:第9章:剛就職から転勤


剛は大学卒業の年をむかえた。
就職先を決めなければならない。

土木工学科の多くは、当時
ゼネコンが主体であった。

ただ、ゼネコンは、大阪や
東京の都会に集中していた。

剛は一人息子ゆえ、親元を離れるのを心よしとしなかった。
しかし、下関には職が無い。

後の恩人となる土木工学科の助教授が、博多駅の近くにある土木コンサルタントの顧問をしていた。
その助教授が、その会社を
斡旋してくれた。

土木コンサルタントの業務は
当時は、設計製図屋であった。
ゼネコンとは大きく異なる。
給与はゼネコンの半額以下であった。

剛、初任給3万2千円で
1970年4月1日に
博多の設計コンサルタント
に入社した。
団塊の世代、中規模な会社ではあったが、新入社員数は
50人を超えた。

金一は、飛び上がって喜んだ。
博多なら何時でも会える。

しかし、そこに落とし穴が待ち受けていた。

当時、東京に出張所があり、
誰かその出張所に行ってくれないか、という、要望があった。
地元に残りたいから、皆、
博多の会社に入った訳だから
名乗りでるものはいなかった。

しかし、土木工学科の1年先輩がいて、つい口を滑らせた。

「そげな事なら、わしの後輩を行かせる。」

この言葉に、周りの連中は乗り、剛をはやし立てた。

剛は先輩の言葉なら断われ無いと覚悟を決め、3年の任期の約束を会社と交わし、東京出張所勤務を承諾した。
即座に会社から、東京出張所勤務の辞令が下りた。

金一はこの事態に驚愕して
あわてて、博多の会社に駆けつけ、会社に、辞令撤回を
嘆願した。
しかし、一旦下りた辞令は
くつがえせない。
金一は絶望の淵にたたきこまれた。
そして、下関に戻っていった。

その後の話となるが、その先輩は、自分の後輩を、自分の言葉で追いやってしまったことを恥じた。
回りの人も
「なんて情のない先輩だ。」
と非難した結果、辞表を提出した。
まさに、口は災いの元である。


剛は、東京では車の運転は
無理だと判断して、車の始末は父親の金一にまかせ、
東京の地に立った。

1970年4月中旬の事である。




          続く

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