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元モー娘。紺野あさ美……赤点少女が黄金に染まるまで

※10月毎日投稿挑戦中。木曜は『 #後世に語り継ぎたい100人 』。

 モーニング娘。の全盛期を知らない人も増えてきたと思う。世間的には初のミリオンを記録した1999年『LOVEマシーン』の頃だと思われがちだが、ファンの間で“黄金期”と呼ばれていたのがこちらの黄金の衣装を身に纏っていた頃である。

 

 2001年7月。『ザ☆ピ~ス!』リリース当時の娘。は、リーダーの飯田、エースの安倍・後藤を筆頭に最強メンバーが揃い、“黄金の9人”と呼ばれるほどの完成形を得ていた。

 そんな中で決行された4人のメンバー増員。そのうちの一人が紺野あさ美(当時14歳)だった。
 黄金の9人に4色が混ざる、それは果たしてプラスになるのか。ファンの間でも賛否両論だった。ましてや紺野はオーディションの最終選考に残った中では最低の成績で、つんく♂プロデューサーに赤点を付けられた存在。肩身がとても狭かった。

 しかし“赤点少女”だからこそ、過酷なボイスレッスンとダンスレッスンを人一倍、同期の他のメンバー以上に努力した。出来ないことだらけで涙する日も多かったが、

「何に対しても努力するところを見てほしいと思います」

 最終選考で口にしたその言葉が嘘にならないためにも、今は諦める訳にはいかない。
 そして彼女は、つんく♂Pの言葉を信じていた。

「歌もダンスも赤点やけど、そいつと最初に出会った時のインスピレーションに賭けたいと思いました。紺野には原石の光を感じます」

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 2001年10月。紺野を含む5期メンバーが加入して初のシングル『Mr.Moonlight~愛のビッグバンド~』がリリース。わずか1週間で30万枚を売り上げ、累計はなんと50万枚を超えた。

 赤点少女は足を引っ張らなかった。紺野を含む5期メンバーは世間に認められたのだ。“黄金の9人”は“伝説の13人”へと進化した。

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 その後も、決して目立つとは言えないポジションに就くことが多かったが、まっすぐ真剣に努力する姿勢と諦めない芯のある志は、いつしか紺野の存在感を大きくさせていた。

 そして2002年9月。数々の名曲を世に残して来た娘。内ユニット“タンポポ”の新メンバーに、なんと紺野を含む3人が抜擢された。さらに翌年7月には、カントリー娘。の新たなサポートメンバーとして藤本と共に起用されたのである。

 また、この頃から紺野はバラエティー番組の学力テスト企画でトップの成績を収めるなど、持ち前の学力で秀才キャラを確立させていた。
 さらに、ハロー!プロジェクトのメンバーで結成されたフットサルチームでも、紺野は陸上と空手で培った運動神経を活かし、キーパーとして大活躍していた。

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 そんな地道な活動の数々が、2004年リリースの『涙が止まらない放課後』で実を結ぶこととなる。

 加入4年目にして初のセンターポジションを獲得。いつの間にか紺野は、頭が良くて運動神経抜群、そして歌もダンスも上手い“優等生アイドル”に化けていたのだ。

 そして、2006年7月。

「(オーディションでは)赤点だった自分をここまで育ててくれたメンバーとファンの皆さん、そしてつんく♂さん、本当にありがとうございました」

 紺野あさ美はモーニング娘。を卒業した。
 5年前の姿が嘘のように、娘。を巣立ちゆく彼女は輝かしい光に満ちていた。赤点少女は黄金に染まったのだ。

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 その後も慶應大学入学、テレビ東京アナウンス部に入社、結婚、出産と輝かしい人生が続く。歌とダンスはもちろん、バラエティー番組、フットサル、受験勉強、キャンパスライフ、アナウンサー、そして現在は育児と、どんな時も、どんな事でも努力し続けた紺野あさ美。

 2022年、アニメ『リコリス・リコイル』の千束(ちさと)の言葉を聞いて、紺野の顔が思い浮かんだ。

「受け入れて、全力! 大体それで良いことが起こるんだ」

『リコリス・リコイル』9話より

 受け入れて、全力。それは紺野に出来たことであり、私に出来ないことでもあった。矛盾と理不尽と無慈悲に満ちた社会。届かない理想。受け入れたくない現実。いい加減、割り切って全力を尽くさねば。まずは考え方を根本から改めねば。

【後世に語り継ぎたい100人】
4人目 紺野あさ美


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