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#1. キリスト教は嫌いだけどイエスは大好きだ! byニーチェ「天国とは何か」

ニーチェといえばキリスト教の批判者として知られているけど、実はイエス本人に対してはむしろ肯定的な評価を加えている…このことがどの程度人口に膾炙しているものなのかはわからないけど、この記事ではまさにそのことを書いています。
題材をニーチェの著作とか遺稿全般にしたらそれはそれで面白いのだと思うけど、そうすると本当にキリがなくなってくるので、ニーチェの晩年の作品(生前に出版はされていない)である『反キリスト者』から肝心要になりそうな文言をいくつか抜き出して自分なりの解釈をつけていきたいと思います。

ところで、「ニーチェはキリスト教は嫌っていたんだけど、イエス・キリストその人のことは評価してるんだよ」ってことなら、ぶっちゃけこんな記事を書くまでもなく、その文言を貼っておけば良いだけです。明日から使えるトリビア的な知識にはなるでしょう。私がここであえてこのテーマで記事を書くのは、ニーチェの描くイエスや、イエスとキリスト教の相違がもっと大きな問題につながっているように思われるからです。大きな問題とは、ニーチェの理想とする人物像や我々が自分自身を肯定して幸福に生きるための方法というものです。

引用のページ数はちくま学芸文庫『偶像の黄昏 反キリスト者』に対応しています。

反キリスト?反キリスト者?

で、いきなりなんですが、今回取り上げる『反キリスト者』のタイトルについて一言断りを入れておかないといけません。これはドイツ語ではDer Antichristとなります。僕はドイツ語に強いというわけではないので断言はできませんが、一般的にドイツ語で「イエス・キリスト」を指すのはChristus(無冠詞)であり「キリスト教徒」を指すのがDer ChristないしDie Christinとなるようです(『独和大辞典』小学館)。後者のChristでも無冠詞にして「イエス・キリスト」を意味することもあるようですが、概ねこの分類ができるのでしょう。だとすると、ニーチェの本Der Antichristは「イエスに反する者」ではなく「キリスト教徒に反する者」という意味合いになります。日本語訳でも日本語タイトルはそれぞれ異なっていますが、既存のもので適切なのは『反キリスト者』でしょうか。『反キリスト』は不適切でしょう。ただ、『反キリスト者』も一見すると「イエス・キリストに反する者」という意味になるので完璧なタイトルではありませんが。そのまま『アンチクリスト』とするのが最善かもしれません。今回は『アンチクリスト』と記すことにします。

天国とは何か

本題です。前述のようにキリスト教をニーチェは批判します。その上でイエスその人に関しては賞賛を浴びせるのですが、この一見矛盾した姿勢は「キリスト教はイエスを誤解ないし曲解している」という前提の上に成り立っています。

崇拝は、崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしば甚だしく奇異な特徴や特異体質を消去するものである−–崇拝とはそれそのものをみないことなのである

AC31, p.209

言われていることはとてもシンプルですね。誰かを崇拝しているときでも、その崇拝の対象の実際の姿を捉えていない。個人的には聖職者や僧侶の性暴力事件が問題になるとこの辺を思い出します。「推し」のスキャンダラスな行動を完全に否定しようとする姿勢も同じようなものかもしれません。

さて、誤解に満ちたイエス像ではなく、ニーチェは「本当の」イエスを描こうとします。と言っても、これもあくまで「ニーチェのイエス」でしかないことは注意が必要ですが。ともかく、ニーチェの描くイエスを見てみましょう。まずは「天国」の捉え方が問題になります。

(救世主の)「よき音信」とは、まさしく、もはやなんらの対立もないということであって、天国は幼児のものであり、ここで説かれている信仰はなんら戦いとられた信仰ではなく、–−それは現にあり、初めからあり、いわば精神的なもののうちへと後退した子供らしさである。(略)そうした信仰は、奇蹟によっても、報いや約束によっても、ましてや「聖書にもとづき」、証明されるものではない。この信仰自身が瞬間ごと、おのれの奇蹟、おのれの報い、おのれの証明、おのれの「神の国」なのである。この信仰はまたおのれを定式化することもない、–−それは生きており、定式を退ける。

AC32, pp.210f

イエスの天国とキリスト教の天国が対比されています。キリスト教の天国というのは奇蹟や報いや約束や聖書によって証明される必要がある、もっというと、天国に入れるということをなんらかの徴によって証明される必要がある。その意味で「定式化」(どのような奇跡が天国に入れる証なのかなど)が必要となってきます。それに対してイエスの天国というのは「信仰自身(=信仰そのもの)」であり、まさにこの「瞬間」に成就するものなのです。

天国というと、最後の審判を経て入ることができる場所とされています。その意味で、キリスト教的には生きているうちは到達できないところ、とにかく時間的には未来にたどり着くことのできる場所のはずです。しかし、ニーチェによればイエスはそのように考えていません。

文化は彼には噂によってすら知られてはいない、彼は文化と戦うなんらの必要もない、−–彼は文化を否定しはしない…同じことは、国家についても、全市民的秩序や社会についても、労働についても、戦争についてもあてはまる、−–彼は、「この世」を否定する理由を決してもたず、「この世」という教会的概念をけっして予感したことがなかった…

AC32, p212

イエスは天国とこの世を区別することがなく、さらには天国を経験するためにこの世のなんらかの条件を変更する必要がなかったと言います。キリスト教会は天国に入るために条件を設定して、それに従うことを促します。これは、我々のこの世における生活をなんらかの形で変更することを要求するものです。そしてその要求は基本的にこの世のものから「この世」的な要素を抜き去る方向に働きます。しかし、イエスは「『この世』を否定する理由をけっしても」たなかった、そして天国と区別される限りで意味を持つ「この世」という概念を考えることすらなかった、とニーチェはここで述べているのです。

では、いわゆる天国とはなんなのか。少し進んで34節に決定的な文言があります。

「天国」は心の状態である、−−「地上のかなたに」ないしは「死後に」やってくる或るものではない。(略)「時刻」、時間、自然的生とその危機などは、「悦しき音信」の教師にとっては全然存在しない…「神の国」は、なんら待望されるようなものではない。それは、昨日をもたず明後日をもたず、「千年」待ったとてくることはない、−−それは心の経験である。それは、いたるところに現存し、どこにも現存していない…es ist überall da, es ist nirgends da…

AC34, p216

先に述べたように、ここでも天国がいつかの未来に実現するものであることが重ねて否定されています。そして、ここで付け加わる重要な主張が「『天国』は心の状態である」というものです。

おのれが「神的」、「浄福」、「福音的」であると、いつでも「神の子」であると感ぜしめるのは、生の実践のみであるということを彼は知っている。神への道は「懺悔」でもなく、「罪の赦しのための祈禱」でもない福音的実践のみが神へとみちびくのであり、この実践こそ「神」である!(略)
おのれが「天国にいる」と感ずるためには、おのれが「永遠」であると感ずるためには、どのように生きなければならないのかということに対する深い本能、他方、これ以外のいずれの態度をとっても断じておのれが「天国にいる」と感ずることはないのだが、このことのみが「救世主」の心理学的実在性である。–−一つの新しい行状であって、一つの新しい信仰ではない…

AC33, p214

イエス本人はどのように生きるべきなのかが明瞭にわかっていて、その生き方を実践する(福音的実践)ことによって自分が常に天国にいることを確信していたということになります。

(一度で絵は終わらなかったので、ここで区切って続編を書くことにします。また、この記事もリバイズしていきます)

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