推しのVTuberが閉じコン化していった過程

 推しが成長していく過程を見ていると思っていたら、推しが閉じコン化している過程を凝視していた。

 最近そんな啓蒙を得た。

 そこで、私の推しの閉じコン化要因を可能な限り論理的に、抽象的に、構造的に記述したいと思う。
 この体験が誰かの糧になってくれたらと夢想しながら。(チキンも熱意も冷めちゃった……)


1. 配信について

 まずはVTuberの主な活動である、Youtubeでの配信について記述する。
 特に、閉じコン化していく原因と思われるものに注目するので、やや棘のある言い方になるのはご了承頂きたい。


1.1 サムネイル

 まずはサムネイルについて。サムネイルとは、Youtubeを開けばたくさん表示される、あの一枚絵のことである。
 我々リスナーはサムネイルという画像とタイトルという文字を見て、その配信や動画を閲覧するかどうかを決めている。

 要するに、配信や動画で何をしているのか、どんなVTuberが配信をしているのかを表現している、大事な絵なのだ。

 特に初見さんは、わざわざタイトルという文字を読むことはせず、画像というパッと見て分かる情報源を参考にしていると考えられる。

 そのサムネイルで、私の推しはファンアートを頻繁に使用している。
 もちろんそれ自体が悪いという話ではない。

 ファンアートを貰えるのはVTuberにとっては嬉しいだろうし、サムネイルに使うことで感謝を伝えるという意味合いもあるだろう。
 また、リスナーによってファンアートの描き方、表現は大いに変わるから、その違いに注目するのも面白いだろう。
 我々既存リスナーにとっては。

 しかし問題なのは、ファンアートをサムネイルに使うことによって、そのVTuberの具体的な見た目が分からなくなることなのだ。

 つまり、ファンアートは描くリスナーの技術や表現方法によって、VTuberの見た目を多少なりとも脚色し、変化させることで描かれているのだ。
 例えば、髪の毛の色は少し変わるだろうし、眼の描き方には大いに個性が表れる。

 その結果、サムネイルに描かれるVTuberと、実際に配信画面に映るVTuberに乖離が生まれることになる。
 サムネイルのVTuberを好みだと思ってクリックしたのに、配信画面のVTuberが好みではないということが起きるようになる。

 以上のような経験が積み重なると、もはやサムネイルに映り我々の目を奪うVTuberのイラストは、とても信用できるものではなくなるのだ。

 それはある種の蠱惑だ。泡沫の幻想に裏切られ続ける、小さな失望の堆積なのだ。

 最終的に、サムネイルにファンアートが使用されているというだけで、もうその配信をクリックする気が失せてくる。
 そして、初見さんの新人VTuberを発掘するモチベーションが次第に摩耗していき、新規リスナーが参入しなくなる

 ところで『2.1 荒らし対策』で詳述するが、最近は荒らし対策として、チャンネル登録者のみが配信チャットに参加できるという場合が少なくない。 
 つまり、配信にチャットで参加するためには、チャンネル登録をしなければならないのだ。

 この労力が発生したことで、ますます新規リスナーは個人VTuberを発掘しなくなると思われる。

 個人勢VTuber界隈は今、そんな不健康な流れを嬉々として作っている。


1.2 ハッシュタグ

 ハッシュタグとは既存の検索ワードのようなものである。
 検索欄にわざわざ言葉を入力しても、その言葉選びによっては、欲しい情報は手に入らないかもしれない。
 例えば、『面白い 配信』とYoutubeで検索しても、実際に面白い配信が出てくる可能性は著しく低い。

 そこで、『#新人VTuber』や『#歌ってみた』など、固定化された検索ワードで簡単に検索できるように工夫されたものが、ハッシュタグである。

 Twitterでも、例えば『#新人VTuberを発掘せよ』というハッシュタグと共に、日々様々なVTuberが宣伝に勤しんでいる。

 ゆえに、新人VTuberを発掘したい人は大抵、このタグを使用し、好みの配信者を発見するのだ。

 このハッシュタグのメリットは、そのワードが固定化されているがゆえに、余計な情報がほとんど出てこないところにある。
 つまり、『面白い 配信』と検索しただけでは面白くない配信もヒットしてしまうが、『#新人VTuber』と検索すれば新人VTuber以外はヒットしない。

 その理由はもちろん、新人VTuber以外の活動者は、『#新人VTuber』のタグを自身の配信あるいは動画に使用しないからである。

 つまるところ、ハッシュタグとは、利便性の高い、固定化された検索ワードだと言うことが出来る。

 それにも関わらず、私の推しは暴君ネロも腰を抜かすほどの暴挙に出た。

 人類の歴史上誰も使ったことがないハッシュタグを設定し、自身の配信につけたのである。
 詳細は省くが、その趣旨は『初見さんいらっしゃい』に他ならない。

 何度でも言うが、ハッシュタグは固定化された検索ワードだ。

 これまで何度も使われ、今も使われているからこそ、そのハッシュタグを使おうという気になるのである。

 その機能を無視して、今まで誰も使ったことがないハッシュタグで『初見さんいらっしゃい』と呼びかけても、無意味なのだ。
 なぜなら、そんなハッシュタグを用いて検索する初見さんなど、世界に一人もいないからである
(悲しいことに、これは誇張表現ではないのだ)

 これは、『蜜蜂さんいらっしゃい』と言いながら海の中へ潜っていくようなものだ。(深海少女~まだまだ沈む~)
 あるいは、『寄ってらっしゃい見てらっしゃい』と叫びながら砂漠の真ん中に店を構えるようなものだ。(今後千年草も生えない 砂の惑星さ)

 しかし驚くにはあたらない。新人VTuber界隈では、ハッシュタグをそもそも使用しない者も多いのだから。
 まるで、初見さんから自分を遠ざけ、チャンネルを深い森の中へ隔離しようとするかのような態度である。

 私の推したちは、初見さんが自分の配信に辿りつけるような工夫をほとんどしない。
 その結果がどうなるか、それは既にタイトルで示しておいた。 


1.3 動画の少なさ

 新人VTuberの一般的な特徴として、私は動画の圧倒的な少なさを指摘できる。

 彼ら彼女らは配信を主軸に活動し、その切り抜きを自身で作ったり、動画を投稿したりすることがほとんどない。
 であるから、大抵チャンネルのメインコンテンツは、数時間に及ぶ巨大なアーカイブの乱立である。

 あたかも、アルプス山脈を前にしながら、これらを全て走破しましょうと言われているような光景だ。
 特に、初見さんにとっては。

 新人VTuber達は、日々数時間ゲームをし、それをほとんど無編集でYoutubeに投稿している。
 ひどい場合には、ゲーム配信と銘打っておきながら、最初の30分ほどを準備不足ゆえのゴタゴタに費やしているものもある。
 さらにひどい場合には、歌配信と銘打っておきながら、マイクの設定を同時に行い、2時間も同じ歌を歌い続ける者もいる。
 もちろん、その大半は、音が途切れていたりノイズが入っていたりするのだ。

 その結果、彼らへの入り口として、配信アーカイブは甚だふさわしくないものになる。
 本当にリアルタイムの配信しか、初見さんを呼び込む道がないのだ。(Twitterを含めればその限りではないが)

 これは、せっかく魚を大量に捌きながら、それらを一切料理しないようなものである。

 10分程度に一つのアーカイブをまとめてくれれば、その動画を見る初見さんもいるだろう。
 あるいは、5秒程度の絶叫シーンをShortに投稿するのも初見さん獲得のためには有効だと思われる。

 しかし、私の推したちは、そのような工夫を一切しない。

 そこには、自分を成長させ、あるいは脚色して他人に好意を持ってもらおうとか、他人のために話を要約しようという程度の社会性さえも見られない。
 むしろ、ありのままの自分をそのまま承認してもらおう、何なら、それを『推し』と表現することでオタク文化の中に紛れ込ませ正当化しようという幼稚な態度が観察されるだけだ。

 これでは文字通り、アーカイブの量も推しの姿勢も、目に余るのである。


1.4 コラボ配信の多さ

 また、一部の新人VTuberたちは、頻繁にコラボ配信を実行している。

 新人VTuberの魅力の一つは、リスナーとの距離の近さにある。

 コメントはほとんど拾ってもらえるし、自分のコメントに笑ってくれることも少なくない。(心から笑っていることは保障しない)
 それが、配信者への親近感として、あるいは配信に貢献しているという自意識として、快感に変わるのだ。

 一方で、頻繁なコラボ配信は、この魅力を徹底的に潰すことになり得る。

 どうしてかと言えば、コラボ配信中は、配信者同士の会話(つまり一般人同士の雑談)が主な場繋ぎであって、コメントはあまり読まれないからだ。
 リスナーは輪の中から除外され、コメントを入力するモチベーションも減退していく。

 言わば、友達だと思っていた人が、自分以外の友達(私から見れば友達の友達)と盛り上がっているのを見せつけられているようなものだ。

 さらに言えば、コラボ配信は元来、そのコラボ相手を知っていないと楽しみにくいものなのだ。
 一方で、世は大VTuber時代。配信者としての成功というワンピースを目指し、数多の新人VTuberが出現しては消えていく時代である。

 つまり、新人VTuberはその数がとにかく多く、とても全てを追いきれないのだ。

 そんな中で、推しのコラボ相手のVTuberにまで目を配っておかないと楽しめないコラボ配信は負担が大きい。

 そして頑張って推しのコラボ相手を知ろうと思いチャンネルに飛べば、先述の通り巨大なアーカイブの乱立なのである。
 それでも推しのコラボ配信のために努力したとして、そこにあるのはリスナーである自分の疎外に他ならない。

 もちろんコラボ配信がダメだという話ではない。
 それを楽しむための事前知識を持っているものが、限られているというだけである。

 そして当然、ここに初見さんは入っていない。


1.5 ルールの多さ

 また、昨今の情勢を反映してか、あるいは大手VTuberを真似してか、概要欄には所狭しとルールが書かれていることが多い。

 代表的なものとしては、『荒らしは無視してください』や『話題と関係ないコメントは打たないでください』、『私の名前を他配信で出さないでください』などが挙げられる。

 しかし、その配信には、コメントがほとんど流れていないのである。

 『話題と関係ないコメントはやめて』と言いながら、ほとんど自分から話題を出さずリスナーのコメントに頼るのが、私の推したちなのだ。

 そこにルールの意義はほとんどない。ルールによって規制される人がいないのだから。
 それは、ただルールを形式的に設定し大手VTuberらしい振舞いをしたいという自己満足だ。

 例えて言うならば、国民の誰もいない場所を治めるのだと主張し、憲法を制定するようなものなのだ。
 そして、ふらっと軽い気持ちで立ち寄る旅人たちに声をかけては、自分の設定したルールを見せつけ、従わせる。

 その姿は、もはや滑稽でさえある。
 ルールとは、問題の発生を予防し円滑に活動するためにあるのだ。

 にも関わらず私の推したちは、問題と共にリスナーをも圧殺し、『他者』を画一的に抑圧することで、自分こそがこの配信の主なのだと言い張る。
 周りの地位を下げることで、自分を人の上に立つ存在として見せているのだ。

 しかし悲しいかな、それは実質的に、『他者』の拒絶に他ならない。
 『他者』を自分の中へ踏み込ませないことで、配信者としてのアイデンティティを保っているだけだ。(難儀プライド 飛び込めデンジャラス)

 そのような国に国民は住み着きにくいだろうし、立ち寄った旅人もすぐ去っていくだろう。

 滑稽なまでのルール制定は初見さんに、コメントを打つ際の窮屈さを与えることにもなる。

 しかし彼らは、それらルールを活動者には必須のものとして、あるいは当然あった方がいいものとして考えていることが多い。
(そして、実際それは正しい)

 これ故に、残念ながら、新人VTuber界隈はどんどん閉じていくだろうと予想される。


余談:BGMについて

 これは余談だが、新人VTuberは十中八九、BGMの音量設定が上手くいっていない。
 自分の喋りに自信がないのか、場が盛り上がることを期待しているのか、大抵の場合BGMの音量は非常に大きい。

 ただでさえ発声がハキハキしていないのにBGMが大きいから、その声が聞き取りにくいことも少なくない。

 『BGMを小さくしてください』とコメントしても、多くの場合は、非常に大きかったBGMが大きいBGMに格下げされるだけだ。
 しかし一度BGMを下げて欲しいとコメントした手前、もう一度同じコメントを打つのも憚れる。自分が要求の多い人間に思えてくるからだ。

 そこで私は思うのだが、配信にBGMは必要だろうか?

 もちろんBGMを活用し配信の雰囲気を作っている新人VTuberもいる。
 例えばクラシック音楽を流して、高尚で美しい配信を作ろうという人もいるのだ。

 しかしそういった場合はむしろ例外的であって、一般には、ただ配信の体を守るために、どこかで聞いたことがあるBGMを流していると思われる場合がほとんどである。

 しかも、その音量は非常に大きいのだ。

 もし、最初からBGMなどがなければ、配信者も音量設定をしなくていいことに加え、我々もバッググラウンドで好きな音楽を流せる。
 聴覚情報が少なくなるから、二窓もしやすくなるだろう。

 配信のアーカイブから切り抜いて動画を作る際も、後付けで好きなBGMを流せるわけだから、配信者から見てもメリットは少なくないと思うが、どうだろうか?

 話が逸れたが、結局のところ彼ら彼女らは、自分の配信をリアルタイムで見返しながら、適宜調整していくという事をしていないのだろうと思う。
 自分のアウトプットからフィードバックを受け取り、修正していくという意識が最初から無いのかもしれない。

 だから、自分の過ちに気づけない。大きいBGMを何時間も垂れ流し続けることに気が付かないのだ。

 この、フィードバックを受け取って修正していくという態度の欠如は、特にBGMの大きさに表出しているが、当然他の側面でも観察されるものである。
 具体的には、『3.1 ゲームの下手さ』と『4.1 フィードバックの不足』で言及する。


2. チャットについて

 次にVTuberとの主な交流場所である、Youtube配信でのチャットについて言及する。
 既に『1. 配信について』の各節でVTuberが閉じコン化していく原因を列挙してきた。しかし、彼ら彼女らが閉じコン化していく最大の要因は、チャットにあると言っても過言ではない。

 そもそもVTuber業界は一般に、精神年齢が低ければ民度も低い、いわゆるキッズを取り込むことで成長してきた業界である。
 したがって、大手VTuberでも『鳩行為』や『指示厨』、最近では『母親づらするモンスター』として、チャット欄の問題が噴出してきた。

 そしてこの問題は、新人VTuber界隈でもほとんど変わらない。故に、VTuberが閉じコン化していく最大の要因は、まさにチャットにあるのだ。


2.1 荒らし対策

 荒らしという存在は昔からいる、というか、荒らしは昔から観察される現象である。
 しかし荒らしへの対策は、最近になって、急速に厳しくなってきた。

 例えばYoutubeでは、モデレーターという機能によって、配信者の目に入る前に荒らしコメントを消すことが可能になった。

 また、配信者のほうでも、コメントを打てる人を絞っていることが多い。

 つまり、チャンネル登録をしないとコメントが打てなかったり、チャンネル登録をして一定期間経過しないとコメントが打てなかったりするのだ。

 それが良いか悪いかという価値判断は、本稿の対象ではない。
 我々の目的は、この風潮によって、どのような帰結がもたらされるかを探求することにこそある。

 荒らし対策としてチャンネル登録者のみチャットが可能となると、チャット参加までの心理的ハードルが著しく上昇する。

 一般に新人VTuberは、チャンネル登録者数を気にし、その増減に一喜一憂する。故に、気軽にチャンネル登録をしてすぐに解除するというのは、それだけで相手を糠喜びさせることになるのではないか、という懸念がある。

 上記の事情から、チャットに参加するために一時的なチャンネル登録をし、自分の好みに合うかどうかを考え、もし合わなかったらチャンネル登録を解除するという作業も億劫なのだ。

 そもそも、大半の初見さんは、わざわざチャンネルに登録しなければチャットが打てない放送に、積極的に参加しようとは思わないのではないか。

 その結果として、配信にコメントを打つ人はほとんど既存のリスナーに絞られることになる。
 その人数も大して多くないから、ほぼ全員が顔見知りの配信チャットが完成する。

 それはもはや、配信ではなく学芸会、発表会に近いものだ。

 そして次第に『2.2 内輪ノリ』や『2.3 ファンの認知』などで詳述する、初見さんが入りにくい空気が、徐々にではあるが確かに醸成されていくことになるのだ。

 

2.2 内輪ノリ

 以上のような、初見さんがコメントしにくい設定、つまりチャンネル登録者のみがチャットに参加できるような設定がされていなくとも、内輪ノリは醸成され得る。

 どうしてかと言えば、そもそも新人VTuber界隈では初見さんが珍しいからで、一度の配信で一人の初見さんがコメントするかどうかも定かではないのだ。

 故に、(設定上は)オープンなチャットを採用していても、その内容は全くオープンではないということはよく観察される。

 しかし、初見という『他者』がいない環境は、既存リスナーにとっては非常に居心地が良い。(私はそうは思わなかったので、本稿を書いているのだが)

 いつもの風景、いつものメンツ、いつものチャット。
 予測不可能な例外的事象が起こる可能性が著しく低い状態。

 それは一般に、平和とも退屈とも形容される。

 既存リスナーにとって、上記のような状態は大変喜ばしい。
 配信がコンテンツとして閉じていけば閉じていくほど、その中にいる自分は安全だからだ。

 次第にその配信でしか伝わらない言葉が出現し、その配信者を知っていないと理解できないネタが増えていく。
 例えば、『この前の配信は大変だったね~。あの時実はさ……』というような、初見さん度外視の放送が平気でなされるようになっていく。

 それに伴って、『楽しいノリ』は湿った暗い密閉空間の中で発酵し、『内輪ノリ』に変化するのだ。

 何よりの悲劇は、実際に配信に参加している既存リスナーから見れば、この状態が『楽しい』『居心地がいい』ものとして映ってしまうことにある。

 コンテンツとしては少しずつ死んでいきながら、その消費者は満足しているのだ。
(推しは死んでしまったのだろうか 息をしてただ待つばかりだ)

 彼らは、嬉々として推しの未来を貪っている。
 明日の楽しさを犠牲に、今日の楽しさを享受している。

 

2.3 ファンの認知

 新人VTuber界隈においては、そのリスナーの数が比較的少ないので、チャットに参加する人を覚えるのは特に難しいことではない。

 Twitterにリプライ(返信)をする人も、大体限られていて、多くとも10人くらいに絞られるだろう。

 故に、ファンのことを大体認知しているVTuberも少なくない。
 それどころか、配信で特定のファンに話しかけるVTuberもいるのだ。

 良くも悪くも、VTuberとファンとの距離が近いのだ。
 そのために、配信にわざわざ『今日は忙しいから挨拶だけ』という旨のコメントを打つ者もいる。
(さよなライオ~ン)

 その結果、ファンの名前は配信上で固有名詞化し、お互いに顔が見える村社会が形成されていく。

 『2.2 内輪ノリ』でも言及したが、いつもの風景、いつものメンツ、いつものチャットに固定化されていくのだ。

 それによってファン達は、自分が推しに認知されていること、自分以外のファンも推しに認知されていることを自覚し内面化する。

 『自分と別のファンが話していても配信者は理解できるし、自分の過去を話しても突然の自分語りにはならないんだ!』
 そんな、ある種不健全な勘違いが正当化されていくのだ。

 これゆえに、配信のチャットでファンが別のファンに話しかけたり、ファンが自分語りを始めることへの心理的ハードルが著しく低下するのである。

 結果として、その配信のチャット欄及びそれを拾うVTuberの配信は、まるで絶海の孤島のような様相を呈す。

 同じ日本語を話しているはずなのに、意味がよく分からない。
 同じVTuber文化にいるはずなのに、価値がよく見出せない。

 こうして、彼らは一体となって自身らを殻の中に閉じ込めていき、初見さんの目線が、初見さんの声が反映されることはなくなっていくのだ。
(君ノ声モ~届カナイヨ)


2.4 初見詐欺

 『2.2 内輪ノリ』で述べた薄ら寒さと『2.3 ファンの認知』で述べた推しに認知されていることの自覚。
 これらの怪物が合体したキメラが、初見詐欺という悪魔的なノリである。
(気が触れそうだ)

 本来この初見詐欺という項目はただの具体例に過ぎないものであって、一節が設けられるほどの抽象性はもたない。
 しかし、初見詐欺に象徴される絶望的な醜さは、大いに語るに値するので、特別に節を設けた。

 まず初見詐欺とは以下のようなものである。
 
 配信にいつも来ておりチャットに参加している人が『初見です』とコメントをする。当然、彼は初見ではない。
 それに反応した新人VTuberは、『もう~、○○さん初見じゃないでしょ』とツッコむ。

 これだけのノリだ。この短い会話に、凄まじいまでの『閉じコン化促進能力』が秘められているのは、もはや芸術的でさえある。

 まず問題は、自分が推しに認知されていることを推し自身の口から語らせようというファンの浅薄さが露呈する点にある。
 彼らのツッコみ待ちのボケは、実際のところ、相手を笑わせようというものではなく、自分がニタニタしたいという欲望の表明なのだ。

 次の問題は、この初見詐欺が、大抵の場合においては、厚かましくも繰り返されることにある。
 暴走したファンは、配信者が『初見さんいらっしゃい!』と笑顔で呼びかける度に首を突っ込む。

 本当の初見さんが話しかけられているのに、まるで自分が話しかけられているかのようにお道化ることによって、話題を初見さんから自分たちに移そうとしているのだ。

 この厚かましさは、配信者が『初見さん来ないかな~』と言っている時にも発動する。
 彼らは何としても、話題が初見さんに映ることを阻止したがるのだ。 

 まさにその瞬間に、初見さんがコメントを打とうとしているかもしれないという可能性は、彼らの脳裏には少しも浮かばないのである。

 次第にその初見詐欺は、一定の『お約束』と化し、VTuberもそれを受け入れはじめる。

 配信者は初見詐欺のボケツッコミの流れによる笑いを誘うために『初見さんいらっしゃい』と言うようになり、ファンもそれに応えて初見詐欺をすることが使命とさえ感じられるようになっていく。

 これにより、自分が推しに認知されていることを確認しながら初見さんを排斥し、その排斥すらも『いつもの内輪ノリ』と錯覚するような歪みが慣習化していく。

 これこそが、初見詐欺の正体であり、その醜さである。


2.5 寒いノリ

 VTuber業界が、キッズの受け入れによって発展してきたというのは、『2. チャットについて』で述べた。

 結果として、インターネットに散見される、キッズ的なノリは新人VTuber界隈をも侵食している。

 その具体例は枚挙にいとまがない。

『推しのせいで死にそうだったけど、なんとかこのコメントをうt』
(注)途中で息絶えたことを表現している。

『敵を返り血で染め上げてやるぜ!』
(注)つまり自分がやられたことを表現している。

『動画終了後に化け物が映っていると思ったら、笑っている私の顔だった』
(注)ブラックアウトしたスマホの画面に自分の顔が映っていることを報告し、その動画が面白かったことを表現している。etc……

 このようなノリは、ほとんどクリシェだ。
 つまり、どこかで見た事があるようなコメントであって、目新しさは全くなく、ありていに言えば飽きられているノリなのだ。

 しかし、彼らキッズはそれを知らない。彼らから見れば、このような路上に捨てられたガムでさえ、新鮮な面白いインターネットの一部なのである。

 だから、これらのコメントには大量の『いいね』が付き、『草』や『それは草』などの、『いいね』とほとんど意味が変わらない無意味な返信が付くのだ。

 彼らキッズは、先人の捨てたガムを口に入れ咀嚼し、『美味しい』と言いながら同世代の友人に配るのである。

 それは我々のような、ある程度インターネットに浸かってきた人間からすれば、もはや薄気味悪さすら感じるような、胃もたれがするようなノリだ。

 ところで、本稿の問題意識はVTuberが閉じコン化していく過程にこそある。
 そして、キッズの参入は、一応VTuber業界を盛り上げてきたという実績もあるのだ。

 この視点から見ると、閉じコン化を予防する意味で、あるいはそれへの対処法として、キッズの参入は必ずしも悪とは言えない。
 彼らの興味を引き熱中してもらうことは、コンテンツが死なないためには大変に意義がある。

 しかしそのメリットは、コンテンツが成長していく段階でだけ享受できるものである。

 コンテンツの成長段階では、キッズの参入による勢いの増加によって、技術を持った面白い人もある程度参入してくるのだ。
 それがさらにキッズの参入を招き、雪だるま式にコンテンツは巨大化していく。
 大手VTuberを例にすれば、『てぇてぇ』を信奉する者と切り抜きを作る技術のある者に双方によって、業界は盛り上がっていったのだ。

 しかしコンテンツの成長が止まると、キッズの露悪的な幼さだけが残る。

 幼稚なノリが『内輪ノリ』化し固定化されることによって、鳥肌が立つような寒いノリが蔓延していくのだ。

 どこかで見たようなボケを書き込み、お決まりのツッコみを貰い、かつて成長していた段階の推しとの思い出に浸りながら、配信を凍り付かせ、時間を停滞させる。

 そこから人が離れていく流れが発生するのは、もはや自然の摂理に比される必然の力学である。


余談:ニコニコのキッズ

 ところで、上記のような寒いノリの蔓延は、ニコニコ動画の全盛期を思い出させる。

 当時3DSからニコニコ動画を閲覧できるようになったことで、キッズが大量に参入し、コメントの質を落とした事件のことである。

 彼らは動画上に表示されるコメントに例えばこのようなコメントを打っては、既存のリスナーを戦慄させていた。
『小学生だけどこの曲知ってます』
『2015/8/25 なう』
『3DSから来ました』
『荒らしをNGしました!』
『~ですね。分かります』
『朝から何見てるんだろ、俺』

 その詳細は、以下の記事に非常によくまとめられているため、よかったらご参照を。

 急成長が止まって久しいVTuber業界だが、今ここには、当時のニコニコキッズたちを彷彿とさせるコメントが大量に書き込まれ、しかもそのまま停滞している。
 いや、一部の個人勢VTuberにおいては、そのコンテンツは急速に冷やされているとさえ言えるだろう。

 彼らキッズの勢いはコンテンツを盛り上げる偉大な力がある一方で、コンテンツから人を離れさせる力もある。

 特に、ニコニコ動画やライブ配信など、彼らの暴走がダイレクトに我々の目に入ってくるような媒体では、そのデメリットが目につきやすい。

 であるから理想的には、キッズの力を借りて成長し、伸びきったその途端にキッズと縁を切ってしまうのが最善であろうと思われる。


3. ゲームについて

 新人VTuberの活動の主軸は、『1. 配信について』で述べた通り、配信である。
 そして彼ら彼女らが配信で具体的に何をするのかと言えば、雑談、歌配信、そしてゲーム配信の3つが主な活動内容なのだ。

 雑談については、今更特に述べることもない。一般人が話しているだけだからだ。
 歌配信については、歌の上手い人から2時間同じ歌を歌い続ける人まで、その範囲が広い。従って、これについては一般的特徴を提出することが難しいばかりか、閉じコン化とはあまり関係がないと思われる。

 したがって、ここからは特にゲーム配信に焦点を当てて論じていく。

3.1 ゲームの下手さ

 こんな言い方は乱暴だが、一般に新人VTuberはゲームが上手くない。

 その理由として、配信をしながらゲームもし、チャットにも反応するというマルチタスクを強制されているということが挙げられるだろう。

 しかし根本的な原因は『3.2 経験値の少なさ』で詳述する、ゲーム歴の乏しさである。

 その原因を探求する前に、まずはゲームが下手な新人VTuberのゲーム配信がどのようなものか、素描してみたい。

 まず私の推したちは、とにかく頭が回らない。
 
彼ら彼女らは、小学生レベルの簡単なパズルに1時間以上を費やすことも珍しくないのだ。

 同じような画面が1時間以上続くと、さすがに見ている方もイライラしてくる。
 しかしそこで答えを教えることは許されない。『1.5 ルールの多さ』で述べた通り、彼らは空虚に自分のルールを設定した孤独な王様なのだ。

 指示厨が出てきた途端、彼らは豹変する。なぜなら、今こそ、自分が設定した『指示厨はやめて』というルールに意味があったと実感できる瞬間だからだ。

 私の推したちは嬉々として、まるで自分が建てた刑務所に初めて囚人を収容する刑務官の如く、ブロック機能を駆使するのだ。

 次に私の推したちは、とにかく記憶力がない。
 謎解きゲームですでに答えが出ているにも関わらず、そして主人公が『これであの謎が解けた!』とわざわざ言っているにも関わらず、何のことかまるで理解できないのだ。

 そして、既に解放された次のステージに一向に進まず、同じステージを永遠と彷徨っている。
 その姿はまるで行き場所を失った亡者のようだ。

 ノベルゲームで伏線回収がされた時でさえ、彼ら彼女らの頭には疑問符以外の何も浮かばない。
 伏線を覚えていないからだ。

 癖の強いキャラの背景が分かってその個性の理由を知った時も、闇に葬られた事件の真相を知った時も、ゲーム開始時のオープニングの意味を知った時も、私の推したちは微塵も心を動かさない。

 何もかも、もう覚えていないのである。

 頭の回転も鈍く記憶力も悪いとなると、彼らは特にアクションゲームに苦労する。

 アクションゲームでは自分でキャラを細かく操作しなければならないことに加え、自分のミスでゲームオーバーになってしまうからだ。
 それを乗り越えるためには、次の敵の行動をある程度予測し、自分のミスを覚えておかなければならない。

 特に自分のミスをフィードバックとして受け取り、繰り返さないように気を付けるのはアクションゲームの鉄則とさえ言える。

 しかし、私の推したちにとってこれは、『寝ながら目を覚ませ』と言われているようなものだ。

 彼ら彼女らはフィードバックを受け取って、自分のゲームプレイを微調整しようとはしない。
 むしろ敵の観察を諦め、失敗の記憶を頭から消すことで、フィードバックが自分に返ってこないようにするのだ。

 同じ敵キャラに何時間も費やし、倒せたとしてもそれはほぼ幸運ゆえで、だから達成感などほとんど無く、ゲームストーリーを理解することもできず、謎解きの醍醐味を味合うことさえ覚束ない。

 以上が、新人VTuberによるゲーム配信の類型である。

 彼ら彼女らにとって、ゲームはコントローラーを握って指先を動かすだけのものだ。

 頭を使わないのだから、映画を見ながらハンドスピナーを回しているのと何も変わらないのである。

 

3.2 経験値の少なさ

 では、どうしてこのような鈍いゲームプレイが散見されるのかと言えば、それは恐らくゲーム歴の浅さに起因すると言うことが出来る。

 一般にゲームを大量にやればやるほど、ゲームに通底する『お約束』や『パターン』が頭に入っていくものなのだ。

 例えばRPGでは、樽や箱があったら取り合えず壊してみるだろう。
 例えばアクションゲームでは、敵の攻撃パターンを覚えながら戦おうとするだろう。

 そのような、漠然とした経験値があることによって、コントローラーを押す指の動きはある程度自動化し、攻略のための思考はある程度無意識化する。

 その分、脳のリソースを別のことに使えるのである。

 これによって、ゲームの上手い配信者はコメントを読みながらゲームをプレイすることができ、攻略をサクサク進めることもできる。

 しかし、私の推したちは、このような経験値をほとんど持っていない。
 いや、ゲームを触ったことがないというVTuberも珍しくないのだ。

 この経験値の不足によって、ゲーム攻略は酷く遅延する。

 或る推しは、一般的なゲーム攻略時間の2倍以上を費やして、ストーリーを終わらせられない。
 実に、一般体なプレイヤーの50%以下の進行度なのである。

 そしてその間何をしているのかと言えば、『3.1 ゲームの下手さ』で述べた通り、同じ相手にずっと苦戦しているのであり、小学生レベルのパズルに混乱しているのであり、自分が次のステージに行けることに気づかないで彷徨い続けているのだ。

 基本的には同じ画面が何時間も映り、配信者の機嫌は芳しくなく、流れるコメントも『頑張って!』『惜しい!』がほとんどである。

 つまり、動きがないのだ。
(まるで将棋だな)


3.3 選ばれるゲーム

 そして、肝心のゲームを選ぶ際にも、私の推したちは悲劇的なセンスを発揮する。

 ほとんど誰もやっていないようなレトロゲーム、実力に似合っていない高難度ゲーム、新機種の操作感に慣れるためのチュートリアルゲームetc……

 彼ら彼女らには、大衆的なゲームをプレイして新しい人に見てもらいたいという考えは露ほどもないと思われる。
 例えばマインクラフトをしたり、Apexをしたり、Splatoon3に手を出したりということは断固としてなされない。

 私の推しの新人VTuberにとってのゲームとは、『3.1 ゲームの下手さ』で述べた通り、ただ指先を適当に動かすものでしかない。

 だから、操作が比較的楽なPCのレトロゲームが特に選ばれやすい。

 操作が複雑な現代的ゲームなど、彼ら彼女らにはとても実況することができないのである。

 また、『余談:BGMについて』でも述べたが、彼ら彼女らは、ありのままの自分をそのまま承認してもらおうという幼稚な傾向が強い。
 従って、配信前に準備をしたり、操作感を確認したりということは、まずもってなされないと考えて良い。

 彼らはノー勉で期末テストに挑み、それを『初見プレイ!』としてエンタメになると思っているのだ。
(それは当たっている場合もある)

 故に、操作感の複雑な現代的ゲームをプレイする際にも、最初の30分ほどは操作方法の確認とグダグダなプレイに終始することがほとんどである。

 加えて、例えばマインクラフトのような、自由であるがゆえに創造性が求められるゲームは、私の推したちにとっての大敵である。

 彼ら彼女らは、頭を使いながらゲームをすることを知らない。
 それゆえに、マインクラフトの実況は、ただ家を作るだけの簡単な目標だけが達成され、それ以降は放置されることが多い。

 上記の通り彼らは配信の準備もしないが、企画を立てたり目標を作ったりもしない。
 だから、マインクラフトのような自由で何をしても良いゲームでは、逆に彼らは何をすればいいか分からないのだ。
(皮肉だよね。全てを与えられると、何もできないなんて)

 故に、すでに明確なゲームクリアという目標が設けられているゲームが選ばれやすい。
 しかし悲しいことに、私の推したちは目標を達成する実力がないため、『3.1 ゲームの下手さ』で言及したような、グダグダプレイが数時間も続くことになるのだ。

 また、自由度が高いということは個性を出しやすいということでもある。
 珍奇な縛りを設けたり、魅力的な目標を立てたりして、初見さんを呼び込みやすいのだ。

 それを避けるというのは、個性が発揮されない分、純粋な数字だけで大手VTuberと戦おうとしているようなものである。


4. 決定的要因について

 本章では、以上の考察を踏まえて、なぜ私の推しは閉じコン化していったのかを記述していく。


4.1 フィードバックの不足

 一部の新人VTuberたちは、何事においても、とにかく自分のアウトプットからフィードバッグを受け取ろうとしない。

 大きいBGMは垂れ流しで、ゲームでは同じミスを何度も繰り返し、そしてその失敗を自分の糧にしようとさえしないのだ。

 であれば当然、そのような態度はVTuberとしての活動にも何らかの影響を与えていると考えるのが自然であろう。

 例えば私の推しは、ゲーム配信の同時接続数が著しく減少しても、暴走機関車のように構わず突っ走っていく。
 雑談配信の同時接続数が次第に減少していっても、何の対策もしない。
 多少バズッた動画があっても、それを参考にしようとさえしない。

 畢竟、その行動は場当たり的で、計画性も活動方針もなく(強いて言えば『気ままに』が彼らのスローガンである)、配信予告は信ぴょう性に欠けることになる。

 例えば私の推しは『これから毎日ツイートします!』と言った次の日にツイートに失敗していた。
(ツイートに失敗するなんて概念があるのは、恐らく新人VTuber界隈だけだ)

 

4.2 第三者目線の不足

 また、『4.1 フィードバックの不足』と関連して、第三者目線の絶望的な不足が指摘できる。

 そもそも新人VTuber界隈は、個人勢も多く、正確な指摘をしてくれる第三者の絶対数が極めて少ない。

 その分自らで第三者目線を仮想的に考えることがより重要なわけだが、驚くべきことに、彼ら彼女らはその逆を行く。

 長時間アーカイブの乱立や配信の準備不足、的外れなハッシュタグ、ゲーム選びの失敗などはその典型例である。


 また、流行っているものに敏感になって話題を作ろうとか、VTuber界の流行りに乗っかろうという姿勢は極めて稀にしか観察されない。

 その結果、ファンとの共通の話題がほとんどないまま雑談配信に挑むVTuberも散見される。

 従って、雑談とは名ばかりで、その内実はVTuberからファンへの、あるいはファンからVTuberへの一方的な知識の伝授になる配信も少なくないのだ。

 ほかにも、サムネイルなどに必要な情報がない点が挙げられる。

 例えばチャンネル登録者耐久配信で現在の登録者数を表示しない。
(『ゴール地点は箱根です』とだけ言われたマラソン生中継を見たいだろうか?)
 端的に文字が読みにくい。
 ファンアートをそのままサムネイルに流用し、文字情報が全くない。etc……

 タイトルにもポエム紛いの一文をつけ、何をしている配信なのかが一目で分からないことも、しばしばある。

 概要欄のリンクが正常に機能しないまま、数十のアーカイブに同じ文言をコピペしている推しもいる。

 総じて言えるのは、彼ら彼女らには、自分が第三者に見られたときにどう映るかを想像する知性が絶望的に欠けているということである。
 彼らには常に〈いま-ここ〉の世界しかない。過去や周りを鑑みる余裕を持たず、荒削りの我流で押し通し、それを『全力』『青春』と呼んで正当化するのだ。

 ところで一般に、第三者目線とは、初見さんの目線のことなのである。

 

4.3 理想の高さ

 自らのフィードバックを受け取らず、また第三者の目線もないため、私の推したちは達成不可能で非現実的な目標を軽々と立てる。

 多くの場合それらは未達成のまま終わり、消化不良感と敗北感だけが残り、その結果なんとなく気まずくなるわけだが、彼ら彼女らにはそんなことは関係ない。

 例えば私の推しはある日、チャンネル登録者の耐久配信を行った。
 つまり、目標のチャンネル登録者数を掲げ、それが達成されるまで配信を続けるというものである。

 その目標は奇跡的に達成されたものの、配信開始から3時間以上に渡って、登録者数が一切変化しないという様を世界に向けて放送し、その間の配信の空気はいたたまれないものであった。

 また、他の推しは凸待ち配信を予告し凸志願者を一カ月以上募集するも、応募した者が0人という惨状を見せつけた。
 その結果、哀れに感じた他VTuberが応募して何とか企画は達成された。

 一般に彼らの目標は実現不可能だが、周りの憐憫と運命的な奇跡があれば形式的には達成されやすい。
 それを私の推したちは、自らの実力で掴み取った成功として考え、自分にポテンシャルがあったのだと解釈し、再び無理な目標を立てるのだ。

 その度に周囲の憐憫に頼ることになるので、彼ら彼女らを『推す』ことは非常に疲れやすい傾向にある。
 まるで子供の無理なワガママに付き合わされているお父さんの気持ちである。

 だから、哀れに感じて助けた方のVTuberファンからは、無理な目標を立てたVTuberは漠然と嫌われやすい。
 明確に嫌なポイントがあるわけでも炎上事件があったわけでもないのに。
 ただ、自分の推しの手を煩わせている人として映ってしまうがゆえに。

 その結果として、VTuberファンからの初見さんは来にくくなっていく。

 彼ら彼女らは、地道な成功体験を積まない。いや、本質的には成功すらしていない。
 ただ、失敗を避け続けているのである。

 致命的な失敗を避けながら形式的な成功をなんとなく続け、徐々にコンテンツ消費者を疲れさせながら自身も死んでいくことが、彼ら彼女らにとっての『成功』に他ならないのだ。


4.4 既存リスナーとの距離の近さ

 しかし閉じコン化の最大の要因は、既存リスナーとの距離の近さにある。

 『3.1 ファンの認知』でも述べたが、私の推したちのファンは限られており、アイコンと名前を簡単に覚えられる。

 だから、本来は匿名であるはずのYoutubeにおいて、ファンは『顔の見える存在』として配信に登場することも珍しくない。

 特に、ファンアートを描く人々の名前は配信で度々言及され、固有名詞にもなりやすい。

 VTuberは個別のファンを認知し取り上げることによって、日ごろの感謝を示そうとする。
 ファンのほうも、それに応えてチャットをしたりファンアートをさらに描いたりして、自らの存在を主張しようとする。

 配信者とそのファンの距離はどんどん近づいていき、ある段階で『参加型配信』という極地を迎える。
 この配信におけるファンは、『素性の知れない、配信者ですらない、謎に包まれたコラボ相手のような誰か』として画面に現前する。

 頻繁なコラボ配信は初見さんを遠ざけることは『1.4 コラボ配信の多さ』で既に述べたが、参加型配信は、これのさらに上を行く。

 なぜかと言えば、参加するファンの素性は、他VTuber以上によく分からないのに、大抵の場合複数のファンが同時に画面に登場するからだ。

 ふと目に入ったVTuberが他VTuber一人とコラボ配信をしているというだけで負担は重いのに、それ以上の『よく分からない人たち』が固有名詞として扱われているのである。

 こうして初見さんを遠ざけながら、彼ら彼女らは交流を深めていく。  
 Twitterで交流を深め、ファンアートが配信で紹介され、楽しそうに『参加型配信』を続けていく。

 そのようなコミュニティはもう完成されているように見え、新しい人が入っていくスペースはほとんど残されていない。

 それは、雪山の狭い洞窟に入り、体を寄せ合って暖を取っているような状態だ。
 人口密度だけ見ればとても高いがしかし、発展している都市からは程遠いのだ。

 日頃の感謝をファンに伝えたい、出来るだけ報いてあげたいと思う善意が、配信者としての自分の首を徐々に絞めていくのである。


5. 結論

 これまで、私の推しが閉じコン化していく要素を列挙し、それが閉じコン化をもたらすまでの過程を論じてきた。
 『4. 決定的要因について』で述べたように閉じコン化の理由は、フィードバックを受け取らないこと、第三者目線がないこと、高い理想を軽々と掲げること、そして既存リスナーとの距離が近いことにある。

 そしてこれらは、一部の例外を認めながらも、新人VTuberの一般的傾向であって、彼らが大手VTuberのように伸びない理由もある程度上記の要因に求められる。

 彼ら彼女らは、このようにして閉じコン化していったし、これからも閉じコン化していくであろうし、それが改善される展望もありはしない。

 私の推したちは、絶望の中で幸福に朽ち果てていく、一輪の花であった。

 この記述が、誰かの糧になってくれれば、幸いに思う。



後書き

 この論稿は、具体的なVTuberの名前を出さずに、可能な限り論理的、抽象的に書かれたものである。

 私はこの論稿でもって、特定の誰かを批判することを目指しているのではないし、VTuber界隈を十把一絡げにして苦言を呈したつもりもない。

 本稿は、そのような価値判断を下すことを目標にはしていないのである。

 むしろ、『なぜ』『どのようにして』私の推したちは閉じコン化していったかを探求し、その原理を記述することこそが目指されている。

 故に、私にはVTuberに対する悪意も憎悪も敵意もない。

 だからこそ、これ以上の弁解や説明は全て省略し、この言葉だけを送って、本稿を終了したい。


 全てのVTuberへ、ありがとう。