意識の問題の改訂、補足作業を終えて

 旧版、西田幾多郎全集3巻に収録されている「意識の問題」の改訂、補足作業がとりあえず終了しました。哲学的素養もなく、推敲作業中に誤読に気付くことも多い未熟な私ですが、これから意識の問題を読まれる方に向けて何か残せるものがあればと思い、このnoteを書いています。本当は「善の研究」や「自覚に於ける直観と反省」の作業終了時にこのようなnoteを書いておけばよかったのですが、今となっては後の祭りです。

 意識の問題は、西田が「自覚に於ける直観と反省」において最終的に到着した『意志』の立場から、意識にまつわる諸問題を体系的にまとめ上げた著作です。「自覚に於ける直観と反省」は極めて論理的に問題を考究する姿勢が強く見られましたが、「意識の問題」は主題が意識という形而上的なテーマであるため、「自覚~」とは一見対照的です。直観的に見えるかもしれません。しかし「意識の問題」は終始一貫した立場で論調が展開されており、そのことは後記において「著者自身は(自覚に於ける直観と反省より)寧ろ本書の方により学問的価値を認められていた」と書かれていることからも推測することができます。

 「意識の問題」をどう捉えるかは、「意志」の概念を読み手がどう捉えるかということに尽きると思います。西田はこの著で一貫した「意志の形而上学」を展開しました。単刀直入に言うと、「意識の問題」において意志とは「意識の根本的形式」のことです。意志は意識の根本的形式であるため、「意志は意識の根底として常に働く」ものです。意志は対象化することはできません。対象化する意識であるからです。思惟により対象化される=自然界に投射されたものは意志ではありません。「普通に(考えられている)意志というのはかえって意識された内感覚や活動の感情などの総合に過ぎない」と西田は言っています。私たちが「意志」と言われてイメージする「意識された内感覚や活動の感情」または「単なる決断の意識」は既に対象化され、自然界に投射された意志です。このように、現代の私たちが普通に「意志」と恐らく呼んでいるものを西田は「抽象的意志、形式的意志」と呼んで、自らが提唱する「絶対自由の意志」と区別しています。この「絶対自由の意志」という概念を理解しないと、「抽象的意志、形式的意志」の概念と混同を来たし、混乱します。西田は所々で「絶対自由の意志」を「抽象的意志、形式的意志」と読み替えても読み進められるような論理の展開をしており、それはもう混乱します(私がその実例です)。西田の指す「意志」を「抽象的意志、形式的意志」として読み進めた場合、この著作は論理を軽視した過度に神秘主義、直観主義的なものと誤解され、不当な扱いを受けることになると思います。逆に「意志」の根本概念を見失わなければ、この著作に通底する力強い論理を見失わずにすむと思われます。(意志の外に、「同質的媒介者」等の特殊な概念の理解は前提としてどうしても必要です。その為に一番良いのは「自覚に於ける直観と反省」を読むことですが、二十万字を超す為そんな暇ないという人も多いと思います。「思索と体験」における〈論理の理解と数理の理解〉だけでも読むことをお勧めします)

 またこの著作はライプニッツに影響を受けたと思しき個所が何か所もあり、ライプニッツの哲学に馴染みがあるとより理解しやすいものと思います。ライプニッツの哲学を西田がどう捉えているかは、「個体概念」という論文に、ある程度簡潔に示されています。初めて読む方はまず「個体概念」を読まれて、そのうえで最初から読むことを強くお勧めします。また「意志」の概念については、小坂国継先生の「西田哲学の研究 場所の論理の生成と構造」を参照されるとより分かりやすいと思います。何故西田が「絶対自由の意志」という意識の根本的形式を仮定しなければならなくなったのかが簡潔に示されています。

 これからもマイペースに改訂、補足作業を進めていこうと思います。未熟なため、補足に誤読が混じっている可能性も高いです。その都度ご指摘いただけると助かります。


追記:現在(2024年3月2日)、次著「芸術と道徳」の改訂、補足作業進めていますが、今の所これまでにないほど難解です。「意識の問題」の理解が無いと、そもそも西田が何を言ってるのか分からないだろうと思われる箇所が何個も出てきています。ご留意されてください。

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