下関 亀山八幡宮
御祭神 應神天皇 仲哀天皇 神功皇后 仁徳天皇
清和天皇の御代、西暦859年に西海の鎮護とし、八幡大神を奉祀することに始まる。
大分、宇佐神宮から京都、岩清水八幡宮に勧請される途中に、亀山の麓に船を繋ぎ、「しばらく祭祀し、奉りて路を進むべし」と言う神託があり、ここに宮殿を造営された。
その後、大内、毛利藩の時代にも「関の氏神」として、奉斎されている。
江戸末期に、この亀山八幡宮に外国船を威嚇攻撃する為に、亀山砲台が作られた。
文久3年、久坂玄瑞の指揮で発射された砲弾は米、仏、蘭相手に馬関攘夷戦の火蓋を切る。
翌年の四カ国連合艦隊の襲撃により、攘夷戦は幕を閉じ開国、尊皇討幕を経て明治維新へと進んでいく。
お亀明神は、下関開作の為に人柱になったお亀さんを祀っている。
この亀山八幡宮の地は古くは島で
、江戸時代に陸続きの工事がされた。
急潮の為、難渋した際にお亀さんが人柱になり工事は完了したとされる。
熊鷹稲荷の傍に祀られた仏像。
これは倉稲魂命と言うより、河童に見える。
亀山八幡宮の歴史は、下関の始まりに由来する。
仲哀天皇が神託に背き亡くなった場所でもあり、秦の始皇帝の後裔を迎入れ、日本に平家一族を繁栄させた所でもある。
全ては、神功皇后と竹内宿禰の策略であったように思うが、應神天皇の子 仁徳天皇に、大和王権を引き継がせる為の橋渡しの場所ではなかったのかと思う。
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