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佐野常民という偉人…

佐賀七賢人のひとり、とはいえ常民の偉業の数々は簡単には説明ができない…
世界遺産に登録されている「三重津海軍所跡」に、ふらっと立ち寄り知る事となった…

〜生い立ち〜
1822年、三重津海軍所跡のある佐賀市川副町の佐賀藩士、下村家の五男として生まれる。(幼名は鱗三郎という)
1832年、9才の時に佐賀藩医 佐野常徴の養子となる。
下村家は、遠祖は藤原鎌足とされている…
「次郎物語」の著者、下村湖人も一族で、佐賀市の旧兵庫村下村という地名もあった程、この地から著名人がでている。

常民生家跡に立つ博愛の碑

〜弘道館に学ぶ〜
佐野家の養子となった鱗三郎は、名を栄寿と改め、12才からは藩校の弘道館に通い漢文、朱子学、五経などを学んだ。
常に首席を争うほど秀才だった。

佐賀神社横にある弘道館記念碑

15才になると、江戸に旅立ち古賀侗庵に儒学、経史を学んだ。

その後、佐野一家が佐賀に戻る事になり、栄寿も佐賀の弘道館に戻り、外科術を学ぶ。

外科医の修行のなか、京都への遊学が決まり、広瀬元恭の時習堂へ入学した事をきっかけに蘭学への道へ進む事になる。
その後、緒方洪庵、大村益次郎、伊東玄朴にも学んだ。

〜佐賀藩の時代〜
その後、佐賀藩主鍋島直正の命で大砲製造の為の反射炉築造を進めていくが、洋式軍艦と爆薬の研究が必要だと感じた栄寿は、蘭学塾門下生の4人を説得し、「精錬方」を立ち上げる。

反射炉と大砲

1853年ペリー来港の際、藩主直正は栄寿に医者を辞めて精錬方主任になるよう任命する。
佐賀藩は船舶、砲術、器械、物理、化学を研究し、1855年の長崎海軍伝習所の開設時には、精錬方から48名の参加となる。

長崎海軍伝習所

幕府は、開港を迫られたのちに、長崎の出島の対岸にある長崎奉行所の教場に伝習所を立て、オランダ教師達を招いて乗組員養成、航海術、砲術、蒸気機関などの教授をした。

〜三重津海軍所の開設〜

1858年に長崎海軍伝習所が閉鎖になると、佐賀藩は三重津に海軍稽古場として開設した。
1865年、オランダから購入した「電流丸」を模範に蒸気船「凌風丸」を製造する。
その後の戊辰戦争で活躍するのも、佐賀藩の造船技術があってこそだったのかも知れない…
明治維新後は、軍艦等を新政府に献上し、日本海軍の設立に貢献した…

〜明治政府と常民〜

近代化が進む中、佐賀藩より派遣団団長としてパリ万博へ参加する事になる。

佐賀藩からは、有田の陶磁器やなまこ、フカヒレなどが出品された。
万博では、ちょんまげの武士に人気が集まり、有田焼の徳利も評判が良かった。

パリ万博土産のサラダ油とガラス皿

日本はこの頃、「戊辰戦争」の真っ只中。
薩摩.長州からは、日和見的な佐賀藩は、批判されていたが 武力討幕を止め、国内の内乱を避けたい意図があった。
戊辰戦争が終わるも、外国船の脅威に対して早く海軍を擁立する事が叫ばれていた。

佐賀藩のアームストロング砲

前半はここまでにします…
どんな立場にあろうとも、その先を見続けた佐野常民…
まだまだ波瀾の人生が待ち構えている

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