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「虎に翼」を観て思い出したこと

今期の朝ドラ、「虎に翼」が素晴らしい。
各所で絶賛されているが、毎回神回で、気づきや考えさせられることが多い作品だ。
毎日の楽しみができてうれしい。

と言いつつも、初回からリアルタイムで観ていたわけではない。
3話目が放送されたあたりで、かなり評判がいいことを知り、題材的にも
「これは観た方がよいのでは…」と気になり始めた。

そこで最初に観たのは、1週目のダイジェストである。
かなりコンパクトではあったが、エッセンスは十分盛り込まれていた。
そして驚いたことに、ダイジェストにもかかわらず、観ながら涙が止まらなくなったのである。

それは、主人公寅子がぶちあたる困難が自分にも身に覚えがあったからだ。
今まで生きてきて、これほど自分とリンクしていると感じた作品はなかった。

もちろん、時代背景も境遇もかなり異なる。だが、根底は同じだと思った。
そして、きっとそう感じている視聴者は大勢いるだろうとも。


ここからは壮大な自分語りになるので、ご興味のある方だけどうぞ。



私は人口1万人にも満たない、関西の片田舎で生まれ育った。
町の9割以上が森林の、ほぼ山と田んぼしかないようなのどかなところである。

私は勉強が好きな子どもだった。
わかるとうれしいし、知らないことを知っていくのは純粋に楽しかった。
そして、どうやら自分は勉強が得意な方らしい、と気づいたのは小2の頃。

なぜなら、通知表に「〇〇に関して右に出るものなし」と書かれたから。
〇〇が何だったのかは忘れたが、勉強に関する何かだった。
「右に出るものがない」という言葉をこのとき知った。
意味は母が教えてくれた。
まったく自覚はなかったので、「先生からはそう見えているんだ」と不思議な気持ちと少し嬉しい気持ちが半々だった。

学年が進むにつれ、先生からだけでなく、同級生からも、私は「勉強が得意な人」と認識されるようになっていった。

「わらびちゃんはすごい」
「さすが」
「尊敬する」

同級生は優しい子が多かったので、素直に賞賛してくれた。
自分ではそれほどでもないと思っていたが、みんながそう言ってくれるのはうれしかった。

また、なんでも筒抜けの田舎なので、私のことは地域の人にも知られ、
「ようできるんやってねえ」
「あの子は学者か長者になる」
などと言われた。
(学者にも長者にもならなかったが笑)

自分で言うのもなんだが、ちょっとした神童扱いをされていた。

このように小学校までは平和だった。
しかし、中学生になって状況が一変する。

中学は町内の他の小学校の子たちと一緒になる。
私の小学校の同級生がたまたま穏やかな子が多かっただけで、
他の学校はそうではなかった。

中学に上がっても、やはり私は「勉強が得意な人」だった。
ところが、そのことで何度も何度も嫌な思いをすることになる。

ある授業で先生にあてられ、正解を口にしたところ、
「なんでそんなこと知ってるんだよ」
と、ある男子に陰口を叩かれた。

「いや、おまえはこんなことも知らないのかよ」
と内心思いつつも、傷ついた。
なぜ、知っているということを悪く言われないといけないのか。

また、あるとき、別のクラスの一言も話したことがない男子から、「ガリ勉」と言われた。
「私のこと何も知らないくせに、勝手なこと言いやがって」と腹が立った。

「なんでこんなことを言われないといけないんだろう。小学校の頃はそんなこと言う人ひとりもいなかったのに。」
と、カルチャーショックというか戸惑った。
勉強ができることを悪く言われるようになるなんて思ってもみなかったから。
あまり目立ってはいけないのかもしれない、と思うようになった。

しかし、そうはさせてくれない人たちがいた。
先生だ。
先生の振る舞いによって、私はさらに追い詰められていく。

ある定期試験が終わった後、その先生は教室に来るなり、あからさまに不機嫌だった。
その理由は、今回のテストの結果が学年全体で悪く、中でも私のクラスがもっとも平均点が低かったからだ。

「そうだったのか。それにしても怒りすぎじゃない?」
と呑気に構えていたら、

「今回90点台は二人のみ。そして二人ともこのクラス」と先生は言った。

血の気が引いた。
まさか。やめて。

「〇〇(私の名前)と〇〇」

なんで言うの・・・!

「それなのに平均点は学年で最下位。どういうことだ」

・・・知らんがな!

いや、私はどういう顔をすればいいんだ。
せっかくいい成績をとったのに連帯責任?
とりあえず、しゅんとしておけばいい?
瞬時にいろんなことが頭を駆け巡ったが、とにかく気まずくて居たたまれなかった。
何この空気。

「またあいつかよ」
「はいはい、すごいすごい」

思い込みかもしれないが、そう言われているようだった。

先生、やめてよ。
私はこれ以上目立ちたくないんだよ。
また悪く言われてしまう。


別の先生ではこんなことがあった。
授業の一環で映画を見せられ、その映画の内容について問う問題がテストに出た。
(かなり個性的な先生で、そんなテストありかよと思った)

「こういう解答をした人が一人いました!〇〇さんです」

また名指しで公表されてしまった。
私の個人情報どうなってるんだよ。

特に奇をてらったわけではないが、私の解答が先生の想定を超えるものだったらしく、いたく気に入られ、

「先生もこの発想はなかった。素晴らしいです!」
と絶賛された。

そこまではよかったのだが、

「なので、今回のテストの満点を変更します」

「・・・え?」

私の解答によって満点が変えられてしまった。
つまり、この問題について満点なのは私だけということになる。

「余計なことするなよ!」
と咄嗟に思ったが、みんなもそう思ったに違いない。

あいつのせいで点数を変えられてしまったと思われてしまう。
特に、優秀な子たちから顰蹙を買うのでは、と冷や汗が止まらなかった。

かなりつらかったが、私の解答に対して
「確かに!」と感心してくれる人がいたのが、唯一の救いだった。

なんでこんな肩身の狭い思いばかりしないといけないのか。
悔しくて息苦しくて、腹が立った。

それから私は、目立たないようにするにはどうすればいいかを真剣に考えるようになった。
そこそこ優秀だが目立たない子たちが心底うらやましかった。
誰からも心配されず、攻撃もされず、ちょうどいい。

わざと解答を間違える?
わかっていても空欄にする?

試しに、テストではない場面でわざと間違えてみた。

余計、気持ちがざらついただけだった。
自分で自分を殺したような感覚だった。
一体何をやっているんだろう。
ばかばかしくなった。

やっぱりやめよう。
私が力をセーブする必要なんかない。
私はこれからももっともっと学びたいし、そのためにも今から力をつけておかなくては。
自分で自分の可能性を潰してどうする。
萎縮しなくていい。
もう誰にも遠慮せず、好きなようにやってやる。

それから吹っ切れて、本気で取り組むことにした。

その結果、トップの成績で高校に合格した。
晴れ晴れとした気持ちになり、自分で自分を認めてあげられたような気がした。

幸い、高校以降はのびのびと勉強することができた。
行きたかった大学へ行き、学びたかったことを学べた。
あのとき、自分の力を抑えるような選択をしなくてよかった。
一度やってしまったら、癖になっていたかもしれないから。

大人になってから気づいたことがある。
これがスポーツや芸術だったら、きっとこんなふうに言われない。
そして、私が男だったら、ここまで言われなかっただろう。

スポーツに秀でていた子を悪く言う人はおそらくいなかったし、
私を攻撃してきたのはほとんどが男子だった。

そう気づいたとき、本当に腹が立った。
私はやはり、あんな目に遭う必要はなかったのだ。

いろいろ言ってきたのは、中学の同級生だけではなかった。

親戚から、「女の子なんだから、そんなに勉強しなくていいのに」
というようなニュアンスのことを言われたことがある。

これに対しては当時から反発を覚え、
「うるせえ。私は好きでやってるんだよ」と思っていたが、
まだそんなこと言う人いるんだ、と驚きもした。

他方で、恵まれていたところもある。
それは、どんなときも家族は応援してくれたことである。
両親にいたっては、「なんでそんなにできるんや」と不思議がっていたが、私の好きなようにさせてくれた。
それほど期待されていなかったおかげで、変なプレッシャーもなく、のびのびと力を発揮することができた。
もし、家族からも抑圧されていたら絶望していただろう。

この話は誰にもしたことがない。
どう話しても、「自慢」「贅沢な悩み」と受け取られてしまうだろうから。

だが、苦しかったのは事実だ。
誰にも話せないので、ひとりで抱え込むしかなかった。

きっと、同じような体験をした人は少なくないのでは。
特に、地方出身の女性に多い気がする。
そんな人たちの話を読んでみたい。

首都圏をはじめとして、都市部では中学受験が過熱しているが、地方ではまだまだこんな地域が多いのではないかと思う。

「虎に翼」を観て、あの頃のことを思い出し、当時の自分を抱きしめてあげたくなった。
よく耐えたね。よく頑張った。
あなたは間違っていなかった。
あなたがあのとき頑張ってくれたから、私は今、幸せだよ。

実は寅子と同じように、私も弁護士を目指していた。
自分には向いていないと悟ったので、結局別の道を選んだが、目指したことは後悔していない。
寅子のモデルとなった三淵嘉子さんのような先人が道を切り拓いてくださったおかげで、私は夢を持てたのだ。
選択肢があることが、どれほど希望になることか。

誰もが芽を摘まれることなく、望む道を進める世の中であってほしい。
そういう世にしていかないといけない。








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