終わりなき日常を生きろ (宮台真司著) を読んで(1/2)

表題の本は一見自己啓発っぽいタイトルをしていますが、オウム真理教について考察した本です。オウム真理教とは 1980 年代から 90 年代に存在した宗教団体で、地下鉄サリン事件(1995 年)を起こしたことで有名ですね。この本は事件から数か月後に出版されています。
私が生まれる前に起きた事件なので当時の状況が記憶にありません。初めて知ったのは小学生の頃で、確かテレビの特番か何かで知ったのでした。それを見たときの、子供ながらに興奮と驚愕が入り混じった好奇心を覚えています。人が洗脳されるとはどういう事だろうと、自分が自分ではなくなるとは、そんなことがあるのだろうかと、足元が揺れるような体験でした。

オウム真理教は当時出家者 1300 人、在家信者数千人程の教団だったのですが、特筆すべきは他の新興宗教団体に比べ社会のエリートが集まっていました。東大医学部出身や早稲田大宇宙工学を経てJAXA で働いていたものもいます。古くからいる教団幹部には 30代の若者が集中していました。
それはどうしてか、サリンをばらまく行為に意味を与えるような社会イメージとは何だったのか?当時の社会状況を、サブカルチャーを通じて見てみます。
1980 年代前半サブカルチャーには女性を中心として「終わらない日常」という終末観がありました。「うる星やつら」が象徴するような学校的な日常が永遠と続くようなイメージです。それに反発する形で 1980 年代後半には男性を中心とした「核戦争後の共同性」という廃墟の動乱の中での団結や共同性がモチーフの作品が生まれます。「AKIRA」がそうですね。そして 90 年代になりブルセラやデークラがブームになる=終わらない日常という終末観が勝利します。
それでは核戦争後のファンタジーに縋り付いていた人間はどうなったか。終わらない日常のなかではありえない、非日常的な外部に未来を投影することでやっと生きていける人間は追い詰められます。終わらない日常はキツイ。さえない奴は一生さえない。そこで廃墟後にオウム大帝国を築き、麻原教祖を初代神聖法皇に!というイメージが共有されます。

なぜ核戦争後の共同性といったモチーフが生まれたのか。1995 年に 30 代だった方は時代をどう生きたのかを見てみます。彼らが小学生の頃アポロの月面着陸や万博という輝かしい未来を夢見ていました。だからこそ大人になったとき、学生運動に見られるような革命幻想を生きる団塊世代への羨望と後の挫折により、革命の輝かしさではなく彼らは等身大の輝かしさに屈折します。その代替物としてサーファーやディスコ、ブランドブームといった80 年代バブルの象徴となる動きを打ち立てます。しかしそれも享受するのは少数であり大半は「ネアカ・ネクラ」「新人類・オタク」のカテゴライズに脅迫されます。輝かしさを信じるも裏切られる世代といえます。そのような等身大の輝きを享受できない者は「終わらない日常」に適応できず、もはやありえない輝かしさを希求し、80 年代後半自己啓発(アウェアネストレーニング)や新興宗教がブームになります。

ここまで読んでどうでしょうか?おそらく何だかなぁといった感じだと思います。正直私もそうです。当時を知らない Z 世代はそんなこと言われても想像し辛いですよね。こればっかりはその時代に身を置かないと実感がわきません。ただ当時を生きていた人たちは実感として何となくそういった意識があった。少なくとも言われてみて、確かにそうかもと納得するのだと思います。

まとめると、(幼少期の科学の輝かしい可能性や団塊世代の学生運動に対する羨望により)非日常的な外部に未来を投影してきたことに対し、「終わらない日常」という現実を突き付けられ、それでも外部の輝きを希求し、不全感を埋め合わせるべく新興宗教に走る。

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