冬の朝

 まもなく小学生になる娘と、それまでの自転車をやめて、徒歩で幼稚園へ登園していた時期があった。
 しっかり歩かせてあげておくといいよ。小学校へは自分の足で歩かないといけないからね。先輩のお母さんたちに、そう助言されたことがきっかけだった。
 その頃、わが家のある集合住宅の周囲一面が田んぼで、夏になると蛙が合唱しているような場所だった。畦道を抜けて幼稚園に向かおうとすると、稲の成長がよくわかる。
 春はヒバリの賑やかな声を聞きながらタンポポの綿毛を吹き、初夏は燕がつい、と低く飛ぶ様を眺めたり、田んぼの脇の畑で野菜を育つのを観察したりした。実りの秋は農繁期、畦道は農家の方に遠慮して、遠目に田んぼを眺めながら少しだけ遠回りして帰った。
 冬は閑散としているようで、実は野鳥の楽園となるので、様々な種類の鳥がいた。剽軽な顔をしたタゲリ、近付いても羽ばたかず、ちょこまか走って逃げるセキレイ。
「あれ、なにかな」
「あの鳥、前も見たね」
 気忙しい時に限って続く娘の“あれ、何?”の質問には閉口したが、園に向かって一緒に歩いている間は、私も気持ちにどこか余裕があり、名前なんだろうねぇ、帰ったら図鑑で見てみよっか、などと答えていたりした。

 凍てつく朝、思い出す出来事がある。
 幼稚園に通う娘とマンションの敷地から田んぼの方へ続く表の道に一歩出た途端、2人で立ち尽くしてしまった。
 野犬かな、と頭が判断しそうになった次の瞬間に、違うと気付いて、頭の中で混乱した。
 目の前にいたのは、野犬じゃない。猿だ。
 しかも、2頭(!)。
 どうして、猿が、こんなところに! 
 驚き過ぎて、声が喉に張り付いたように声が出ない。息を飲んだまま、立ちすくんでしまった。
 想像するより猿は大きく、大型犬に近い大きさ、私と娘に気付いてこちらに目線を向けてきた。目線の位置は娘に近いくらい。
 その娘も、固まった姿勢のまま、声を発せなくなっていた。娘が猿と目を合わせてしまったら、野生の生き物は襲撃してくるんじゃないか。
 目まぐるしく頭の中で考えたその間、何秒の出来事だっただろう。猿の方が、不意に向きを変えた。そして、もう一頭とともに走り去ってしまった。気付くと、猿の姿は見えなくなっていた。
 たまたまゴミ出しに出ていた近所の方も同じ場面に遭遇し、ひと呼吸おいてから、今の猿だよね! びっくりしたー!と声をかけられた。
 娘も驚いた顔のまま、私を見上げた。怖がらせてしまったかな。私も鳥肌が収まらない。
 登園の時間が近付いていた。お猿さん、もう来ないと思うし、幼稚園にはみんながいるからぜったい来ないと思うけど、どうしたい?と尋ねた。
「お猿さん、どっかに行っちゃったから、もう来ないよね。来ないなら、ようちえん、行く」
と言うので、そのまま登園することにした。でも2人とも、どこか心が波打ったままだった。猿で有名な観光地でならまだしも、住宅地の、わが家のそばで、猿に会うなんて!
 ひょっとしてまた現れないかな? 恐怖を感じるよりなぜか興奮が先に立って、いつもの道をずっとしゃべり続けながら歩いた。

 娘を園に送り届けた後、出勤していた集合住宅の管理人さんと話すと、このところ収集日はやたらとゴミを荒らされていた、と言う。
「カラスのような荒らし方ではないと思ってたのよ。やっぱり猿よねー」
と納得したようにおっしゃった。
 被害がなくてよかったものの、何かあってからでは遅い。なにか対応しなくては、と管理人さんと話し合って、市役所に連絡することにした。
 すると、市役所には同様の電話が相次いでいたらしい。用件を告げると、内線で転送された電話口で、
「あー、猿の件ね。今朝あちこちから聞いてるんで。猿ね、人からは逃げるんで、庭伝いに逃げるんですよ。だからもうどこか行ってます」
 何度も答えたらしい、ちょっと億劫そうな返答に、がっかりした。一市民が、他の方に危害があってはいけない、と善意の通報をしたつもりだったのに、そういうふうに受け取ってもらえなくて、とても残念に思った。
 でも、私の残念な気持ちには、「住宅地で野生動物に遭遇する」という滅多にない事態に遭遇したことへの興奮に、同調してもらえなかったことへのがっかりも入っていたのかもしれない。
 そして、市役所の人も、“自分は遭遇していない”ことに“うっかり遭遇してしまった人”からの、興奮気味の通報だらけで、聞くのにうんざりしたのかもしれないな。そう考え直したら、猿騒動の興奮は、一気に鎮まってしまった。

 その後、一面の田んぼの半分は宅地に造成され、新しい住宅街に生まれ変わった。残された畦道も舗装された農道となって、私は娘とタンポポの綿毛を吹き飛ばすこともなくなった。
 そして、冬の朝、再び猿に遭遇したことはない。

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