エールを送る



 2月の朝、澄んだ空気は冷え、吐く息は白い。
 高校受験、第1志望校の入試当日。遅刻しそうな私は、試験会場の最寄り駅の改札から、父と別れ、泣き出したい気持ちで駆け出した。

 家を離れ、県外の志望校を受験する私に、父が付き添ったのは、母がついたばかりの職場で休みを取りにくかったからだ。母になら言えることも、父には言い出し辛い。心許なくなかったが、仕方ない、と割り切るしかなかった。
 旅行代理店が「受験生パックの宿」とうたったホテルには、私と同じような受験生とその家族がいた。当日の朝、みな早々と出発していくのを見て、心細くなってきた。
 前日、試験会場の下見に足を運んでいた。だから、集合時間から逆算すれば時間に余裕がないことがわかったはずなのに、父はなぜか「間に合う」と言い張り、ホテルのラウンジでのんびりコーヒーを飲んでいた。出張の感覚なのだろうか、いつものマイペースがだんだん憎たらしくなってきた。私は志望校の受験を前に、一世一代の気持ちなのに。

 そして乗った電車で、父はようやく指定された時間に間に合わないことに気付いたようだった。私に、駅から一人で走って行きなさい、と言った。自分がのんびり飲んでいた、コーヒーのせいだとも言わずに!
 前夜のホテルで問題集を広げていたことも横で見ていたはずなのに、わが子の気持ちなんか、何も考えてないんだろうか。
 挙げ句、試験直前に会場までの道のりを全力で走る羽目になり、私は心細い気持ちから、父に腹が立ち始めていた。同じ方向へ歩く受験生や付き添いの家族が、息を切らしながら走る私を何事かと振り返る。それも恥ずかしい。
 なにもかも、父のせいだ! 私は怒りで頭が沸騰したようになりながら、必死で駆けていた。

 走る私の姿に釣られて、駆け出したセーラー服姿の女の子がいた。自分も間に合わないのかもしれない、と同伴しているお母さんに促されて、走り出したようだった。
「時間、間に合うかなぁ」
 走りながら話しかけてきた彼女は、受験の直前とは思えないほど明るい声だった。
 よく聞けば、彼女が指定された集合時間には少し余裕があるようだった。私はというと、完全に遅刻の組だ。ああもう、父め! 心の中で父に悪態をつく。焦る私へ、彼女は先に行くよう言ったのち、
「お互いに、頑張ろうね!」
 思いがけないほど、眩しい笑顔でそう言った。

 伴走をやめて私を見送る彼女を背に走りながら、遅刻の瀬戸際も忘れて、私は急に笑い出したくなった。
 受験の朝、こんなに全力疾走して、初めて出会った同級生にエールを送られるなんて。彼女も同じ試験を受けるはずなのに、こんなふうに、互いの健闘を祈りあっている。なんて不思議で、素敵なことなんだろう。
 たちまち愉快になって、緊張が一気に抜けた。

 息がととのわないまま、私が試験会場の席に着いたとき、試験用紙はまだ配られていなかった。私は試験の開始時間に間に合ったのだ。
 冬なのに汗をかいている私に、暖房の調子は大丈夫か、試験官の先生が確認してくれた。会場滑り込みの私にまでくださった心遣いの言葉が、ありがたかった。
 数日後、「サクラサク」の電報に、一番最初に喜んでくれたのは父だった。父なりに、集合時間に遅刻した責任を感じていたようだ。

 そして危機一髪の私にエールを送ってくれた彼女とは、その後、再会することは叶わなかった。   
 入学前の説明会で、印象的だったあのセーラー服を探したものの見当たらず、胸が痛んだ。
 それでも、同じ学び舎で青春を過ごす友達との出会いがあり、その後の人生の、いいときも悪いときも、互いに励ましあってきた。

 卒業後、再び母校に縁ができた。私の娘も、私の母校に進学することになったのだ。
 娘も同じ学び舎で友達に恵まれた。堅実志向の娘にはカルチャーショックのような出会いから、それでも共有できることを尊重しあいながら、より自由に、よりしたたかに、自分たちの道を切り拓けるようになった。きっとこの先、学び舎を巣立ったのちも、彼女たちは折々に励ましあいながら、生きていくのだろう。

 彼女にも、きっとそういう出会いがあって、彼女の青春を歩いてきたと信じたい。
 あのセーラー服姿を、私が再び見つけることは叶わなかったけれど、ずっとずっと、心の奥底からエールを送っているような気持ちだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?