見出し画像

2、キングコングができるまで

2.キングコングができるまで

大きな山をひとまたぎ
キングコングがやって来る
怖くなんかないんだよ
キングコングは友達さ

この歌をご存知だろうか。一度聴いたら耳から離れない心地よいメロディーと優しい歌詞。この歌の影響かどうかは分からないが、私は昔からキングコングは見た目は怖いけどみんなに優しい怪獣というイメージを持っている。きっとそう思っている人は多いはずで、そのギャップが長年ファンを魅了している所以かもしれない。

その「キングコング」が私の勤める会社の名前だ。焼肉パラダイス・キングコングは沖縄県の中央に位置する沖縄県第二の都市、沖縄市にある。23年続いている焼肉食べ放題の店だ。テレビCMもしているので、沖縄県の中部地区に住んでいる人なら名前くらいは聞いたことがあって、私がそこに勤めていると言うと「ああ、キングコングね、子供の頃によく行ったさー」とか「子供が小さい時はよく家族で行ったさー」と皆声をそろえて言う。その通り、キングコングは家族連れのお客様に楽しんでいただけるように、常時、焼肉やお惣菜など70種類の料理とドリンクバーやデザートを用意している。平均客単価はランチで1,150円とリーズナブルで、楽しい家族団らんの時間を提供している。

キングコングを運営している株式会社NSPは「ナガイ・ソーシャル・プロジェクト」の略である。元々は株式会社ナガイ産業がキングコングを始めとするその他の飲食店も経営していたが、新しい取り組みを始めるためにキングコングだけを切り離してNSPが誕生した。現在ではナガイ産業と協力しながら2社で社会的な課題の解決に取り組んでいる。ナガイ産業でのどのような出来事が社長を障害者雇用へと動かし、NSPの誕生に至ったかについて少し紹介しておくことにする。

ナガイ産業は沖縄県内で飲食店13店舗を営む会社だった。一時は飛ぶ鳥を落とす勢いで事業展開していたが、今から十数年前に不況の煽りを受けて倒産の危機に陥っていた。飲食業はもともと低賃金・長時間労働というのが常で、人手が不足しやすい業態である。当時のナガイ産業は広域に店舗を展開していたため更に人員の調整がしづらく、次第に人手不足が深刻になってきていた。

人手不足はスタッフを疲弊させる。和食の職人は洋食のメニューが悪いと言い、洋食の職人はホールスタッフの接客が悪いと言い、ホールスタッフは管理者の営業戦略が悪いと言い、管理者は経営者が無能だからだと、互いが互いを責め合う「他責の文化」が会社全体を支配するようになっていった。

社長もそういった状況を改善したいとはもちろん思っていたが、もうその時にはなにをやってもうまくいかなくなっていた。セミナーをかたっぱしから探しても、あるのは「売り上げを上げるには」「経費を削減するには」というような経営セミナーばかりで、「会社の空気の変え方」、社風や企業文化をどのように変えられるのかは、どこに行っても、いくら出しても学べなかった。こうして従業員はまとまらず経営者が孤立した状態は続き、ついに10店舗閉鎖を決意するまでになった。年商もピーク時の5分の1に落ち込んでいた。

人手不足で猫の手も借りたい状況だったキングコングには、足元を見られてか、求人に応募してくる人はいなかった。時給の調整をしても、条件を緩和しても、負のオーラが出ている店舗にはなかなかアルバイトすら来てくれない。

そんなところにヤツは現れた。武夫君だ。当時高校生で16才だった武夫君。面接に来た彼は大きな体を丸くしてうつむき加減、上目遣いで目線は合わない、声は小さく、自信がないというよりは何かに怯えているように見えた。

何だか分からない違和感を覚えながらも、店長は武夫君を雇用せざるを得なかった。しかし、店長が感じた違和感は間もなく店舗の問題をさらに大きくするものとなった。武夫君は勤務開始直後から、物覚えが悪く同じミスを何回も繰り返す、目線が合わない、吃音がありうまくコミュニケーションを取れない、とお客から苦情が出始めたのだ。

もっと大変だったのは内部からの不満だった。ただでさえ大変な現場に仕事量を増やす人が増員されたという不満だ。武夫君は注文を間違えてオーダーしてしまったり、出来た料理を違うお客に持っていったりと多くの場面でヘマをした。そのたびに他のスタッフがフォローしないといけないので、ついに周囲のスタッフが「武夫君と一緒の給料だったらこの職場を辞める」と言い出し、それが連鎖していったのだ。管理者や経営者はこの事態をどう収めればいいかさらに頭を悩ませ、負のスパイラルが渦巻いていった。

どん底のこの状況で店舗が良い方向に行く気がしている人は誰もいなかった。しかし、武夫君だけは違った。ただ一人、この状況でも「仕事が好き」と言っていつも張り切って出勤してきた。相変わらずミスを連発する武夫君だったが、辞めることなく、そして凹むことなく人手不足の過酷な店舗に出勤し続けた。

武夫君の勤務はいつの間にか半年を超えた。そしてふと気がつくと、武夫君の存在は店舗の安心感を生み出すようにまでなっていた。当時の店長は言う。「あの状況なので他のアルバイトは当日急に欠勤したり、急に辞めたりされていた。それが一番きつかった。だけど武夫君は絶対出勤するという安心感があった。どんなに仕事でミスしようが絶対に来る、というのは私の心の支えだった。」

支えられていたのは店長だけではなく、周りのスタッフも一緒だった。武夫君は業務内容の好き嫌いがなく、なんにでも取り組んだので、いつの間にかオールマイティーな動きができる人材になっていたのだ。そして1年が過ぎ、2年が過ぎ、3年間勤め上げた。3年目には他のアルバイトも社員も武夫君を頼りにするようになっていた。お客さんも相変わらずミスをする武夫君と仲良くなり、最後にはお客さんが武夫君のフォローをするようになっていた。

武夫君自身の成長ももちろんあると思うが、それ以上に変わったのは、武夫君に向き合い、その長所を見つけ、引き出していった店長やその他従業員だったのだと感じている。その証拠に武夫君のオーダーミスは退職する直前まで続いていたのだ。だが、それを責める従業員はいなくなっていた。周りが役割分担をして武夫君が得意なポジションにできるだけいられるようにしたり、ミスをしても店長や料理長がすぐにフォローにまわる体制ができていた。武夫君を中心にしたフォーメーションが知らず知らずのうちにできていたのだ。

思い返すと、経営状態も雰囲気も悪かったキングコングを救ったのは、彼だったのかもしれない。社長も「当時の店舗状況は今考えても恐ろしいです。あの中で仕事が好きと言って働きに来てくれる人が一人でもいるなら、たとえその人が全然仕事ができなくても、大切にするべきです。むしろ、そういう人材には店舗に必ず一人はいて欲しいと今では思っています。」と言っている。

誰も障害者という概念を知らなかったし、彼がそうであるということも知らなかった。随分と時間が経ってから、彼が以前に利用していた福祉施設の職員が偶然お客として来店し、武夫君は障害者ということが分かったのだった。おそらく当時、入社前にそのことを知らせていたら、特に理由もなく雇用に結びつかなかったに違いない。

障害者である武夫君に救われたという思いは、その後もずっと社長の中にあった。そして、平成24年、ついにそれが障害者雇用という形になるのだ。

#キングコング #KINGKONG #障害者雇用 #焼肉 #沖縄

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?